名曲喫茶クラシックとの関係
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「名曲喫茶ヴィオロン」の記事における「名曲喫茶クラシックとの関係」の解説
中野にあった名曲喫茶クラシックは寺元に大きな影響を与えた。その出会いは高校時代にまで遡る。 幼い頃から蓄音機から流れる音楽に惹かれ、ゲルマニウムラジオやアンプを作っていた寺元は、秋葉原の電気街での就職を目指し、家出同然で佐賀県から上京した。1969年に高校の友人に勧められて名曲喫茶クラシックを初めて訪れたところ大きな衝撃を受け、以後毎日のように通った。店主の美作七朗と親交を深め、朝昼晩の食事などを提供されるうちに、寺元は店のアンプやスピーカーの修理を担うようになった。 高校卒業後は美作から勧められて大学の理工学部に通ったが、卒業間際になって「レコードになる前の音を自分の身体で覚えよう」と思い立ち、美作の「いろんな『感性』を勉強しなさい」「本物を見なきゃダメ」という言葉のもとヨーロッパを周遊した。ウィーンやフランスを拠点として、ヨーロッパ各地のコンサートホールを訪れた。なお、その後も2年に1回程度海外に足を運び、オーディオの部品などを購入している。 帰国後は一旦就職するものの、やはり美作の勧めもあり、コーヒー豆の調達などを協力してもらって1979年26歳の時にヴィオロンを開店した。ヴィオロンを開いてからも、定休日には互いの店に顔を出した。 また、画家でもあった美作が自身の絵を売ってまで手に入れたRCAのスピーカーに寺元は強く惹かれ、自らの手で作りたいという思いを抱いていた。その後、文献を探してスピーカーの権利を持つ人物に会いにゆき、権利金を払って製作の許可を得た。また、先述のクレデンザーは、「これで『耳の勉強』をしなさい」と美作に選定してもらったものである。 なお、美作が亡くなった時は最後まで手を握っており、その後分骨をされた。また、美作の娘の良子が店を継いだ後も、クラシックの機械が故障した時にはすぐに駆けつけていた。 クラシックの閉店後は、その一角をそのまま「ヴィオロン」の店内に移築した。また、2017年9月8日(金)から2018年3月25日(日)にかけては、東京都杉並区高円寺の名曲喫茶ルネッサンス、東京都国分寺市の名曲喫茶でんえんとともに、美作の生誕110年を記念した作品展を開催した。
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