名古屋大学から東北大学へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:27 UTC 版)
「鈴木光男」の記事における「名古屋大学から東北大学へ」の解説
義兄が名古屋に在住しているという経済的事情から、1948年名古屋大学理数学部数学科に進学するも、数学科の高度で抽象的な講義に疑問を持ち、友人から東北大学で数理経済学という数学を使う経済学の大家がいるという話を聞き、名古屋大学を中退し1949年東北大学経済学部に入学した。またこの年の7月に母タケを失っている。 東北大学経済学部では、安井琢磨の「経済原論」、米沢治文の「統計学」、熊谷尚夫の「計画経済論」を中心に講義に出席する。また、米沢が指導する工業研究会に参加する。2年生になり、安井の理論経済学と米沢の統計学のゼミに参加する。 1950年4月に発行された『季刊理論経済学』に、一橋大学教授の山田雄三による「ミニマックス原理の要点」が発表され、日本に本格的にゲーム理論が紹介された。この論文に興味を持ったのが鈴木のゲーム理論との出会いである。安井ゼミではワルラス流の一般均衡理論の批判から始まり、経済学の確率論的認識を発表しているが、安井の関心事が一般均衡理論とケインズ経済学であったため、鈴木の発表に安井はあまり興味を示さなかった。 鈴木は漠然と大学に研究者として残ることを考えていたが、大学卒業前に安井から「大学に残れ。君はゲーム論の大家になれ」と勧められ大学に残ることを選択する。同大学を卒業(1952年)後、4月からは大学院の特別研究生として大学で研究を続ける。ジョン・ナッシュの非協力ゲーム理論やそれに必要な不動点定理を勉強するとともに、Debreu(英語版)の論文を学会で紹介している。
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