号数活字の大きさは鯨尺によるものか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:58 UTC 版)
「本木昌造」の記事における「号数活字の大きさは鯨尺によるものか」の解説
号数活字の大小の関係は、初号-二号-五号-八号、一号-四号-七号、三号-六号の三系統に分かれるが、これらの系統には相互の倍数関係がなく、理由もはっきりしていなかった。そこで、その制定をめぐってさまざまな解釈がなされてきた。例えば築地活版によるスモールパイカを基準にしたという説、三谷幸吉による鯨尺基準説、小宮山博史らによる輸入説である。 築地活版は、この号数活字の大きさの由来を明らかにしてこなかったが、明治末期にポイント活字を普及させようとするころにいたって、「欧米ではパイカ (pica = 12ポイント) サイズが主流だが、日本字には大きすぎるため、一回り小さいスモール・パイカ (small pica = 11ポイント) サイズを五号として、それを基準に、本木は整然とした倍数関係を作りあげたが、複製したり、各社で混乱したりしていくうちに崩れた」との旨発表し、その説明がひろく受け入れられていた。しかし三谷幸吉が『本木昌造平野富二詳伝』(本木昌造平野富二詳伝頒布刊行会、1933年)で「本木の自筆記事によれば、鯨尺の一分を基準に、2厘5毛乃至5厘の間隔で大きさを定めたのである」との旨著し、「外国の基準に由ったのではない」とすると、日本独自の測り方によっているということやその検証から、疑問を持つ者はあっても多くの印刷史の研究書や規格に援用された(JIS Z 8305など)。しかし小宮山博史は「導入期明朝体活字稿」(『タイポグラフィックス・ティ』138号、日本タイポグラフィ協会、1991年)などの論考で、美華書館の活字との比較検討から美華書館の活字をそのままいれ、その後整備されて今の形になったと結論付け、三谷の説に賛同するものは減っていった。ただし号数活字はフルニエ・ポイントに従うものだ、という小宮山説には、美華書館がポイントシステムを導入していた証拠はないとする異論も見られる。
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