古代教会における教皇不可謬説の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 14:12 UTC 版)
「教皇不可謬説」の記事における「古代教会における教皇不可謬説の解釈」の解説
初期の教会ではまだローマ教会およびローマ司教たる教皇の権威が全域で認められていたわけではなかった。 ローマ教会およびその司教には他の教会や司教にない卓越した権威があるという考え方は徐々に発展し広まったものだった。それにともなってその根拠を福音など聖書の中に求めようとする理論も発展した。他の教会の間にローマ教会の首位権がみとめられるようになるのはせいぜい1世紀の終わりからである。 — ルドヴィク・オットー『カトリック教義の基礎』4巻第2部2章6 クレメンス1世(ローマのクレメンス)は99年にコリントの信徒にあてた手紙にこう書いている。 ほんとうにあなたたちの存在が私たちを喜ばせてくれます。もしわたしたちが聖霊の導きによって書き送る書簡に従うなら、私たちの間の平和と一致が保たれることでしょう。 — デンツィンガー・シェーンメッツァー編『カトリック教会 文書資料集』41番(以下デンツィンガー) アレクサンドリアのクレメンスは200年ごろ、ペトロの権威について書いている。 聖なる、選ばれたペトロは使徒のうちのかしらであり、救い主ご自身がそれを選ばれたのである。 — ユルゲンス436番 各教会の間の順列については251年に教皇ステファヌス1世がアンティオキアの司教にあてた手紙の中で強調している。 それ以上に、あの福音の守護者(ノヴァティアヌス)はカトリック教会に(ローマの)司教はただ一人であることを知らねばなりません。これはかくれない事実です。 — デンツィンガー45番 341年にはユリウス1世がアンティオキアの教会にこう書き送っている。 あなたがたは知らないのですか、わたしたちが最初に知らされることが慣習であること、なにが正しいかがここ(ローマ)で決められるということを。 — デンツィンガー57番 使徒たちの考えていたことが語り伝えられたすえに、文書化されて新約聖書の原型となったことは疑いの余地がなく、使徒たちに由来する伝統がやがて教会の聖なる伝統(聖伝)をつくっていったことも疑い得ない。ここからひとつの結論が導き出される。 シリキウスは385年にヒメリウスにこう書き送っている。 あなたの質問に対しては法的に正しい解答を拒むことはできない。なぜならわたしたちには教会全体に対する義務がある以上、偽りをいうことができないだけでなく、沈黙することもゆるされないからである。私たちは教会全体の負う重荷を共に担っている、そこでは聖なるペトロがその後継者を守ってくれているのである。 — デンツィンガー87番 初期の一連の公会議と関連して、教父たちの多くも聖書と聖伝の判断に関するローマ司教の優越の正当性について言及している。
※この「古代教会における教皇不可謬説の解釈」の解説は、「教皇不可謬説」の解説の一部です。
「古代教会における教皇不可謬説の解釈」を含む「教皇不可謬説」の記事については、「教皇不可謬説」の概要を参照ください。
- 古代教会における教皇不可謬説の解釈のページへのリンク