反転作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 09:21 UTC 版)
3月24日、北方から急進してきた第72軍も戦場に到着し、第34師団は中国軍9個師の包囲の中に入るかたちとなった。第34師団の大賀師団長は、第11軍司令部に救援を要請して、部隊に反転を命じた。驚いた第11軍司令部は、第33師団に再出撃を命じ、木下勇参謀長を急遽南昌へ派遣した。第33師団は24日未明から進撃を始め、27日に第34師団と連絡を遂げてその撤退を援護した。反転後、高安に到着した池田旅団も、西方の龍団墟に収容陣地を設けて、第34師団の撤退援護を行った。 3月27日、第34師団は、数百人の患者を含む全部隊がようやく泗水を渡り後退を開始した。しかし師団の行く手には、中国軍の予備第9師が陣地で待ち構えており、後ろからは6個師が追撃してきていた。この日、勝利を確信した羅卓英将軍は総攻撃を命令し、翌日夕暮れまでの期限付きで高額の賞金を布告した(日本軍将兵や大砲・軍旗など)。 夜になり、師団は豪雨の中を進んでいたが、野戦病院を警護する野砲兵第8中隊が優勢な中国軍の攻撃を受けて全滅した。翌28日に、龍団墟へ到達したときには、数百人の負患を擁する担架隊の列が7~8キロ続いたといわれる。この日、第33師団歩兵第214連隊が第34師団司令部と連絡し、救援に成功した。第34師団は、高安を経由して4月2日に原駐地に帰還した。一方の第33師団は、各所で激戦を交えて29日に反転を開始したが、途中で中国軍の側撃や追撃を受けて苦戦しながら敵中を突破した。師団の山砲隊は全弾を撃ち尽くし、弾薬の空中投下を受けて戦いながら、4月2日に帰還した。
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