南海復帰~晩年
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「ドン・ブラッシンゲーム」の記事における「南海復帰~晩年」の解説
阪神退団後も複数の球団から勧誘され、古巣・南海の監督に就任した。 1年目の1981年はルーキーの山内孝徳、山内和宏2投手が加わり、ベテランの山内新一でトリオ・ザ山内が誕生。3人が先発の柱になり、藤田学も復活した。打線も好調で門田博光、ジム・タイロン、新井宏昌、藤原満が3割、門田が月間16本塁打を樹立し、初の本塁王も獲得したが、前期5位、後期6位(年間5位)と低迷した。首脳陣と選手達との内紛が絶えなかったと言われた。 1982年はトリオ・ザ山内が揃って二桁勝利を挙げ、金城基泰が21セーブと投手陣が整備されたが、最多打点がタイロン、定岡智秋の48で、主砲の門田が故障で離脱するなど打線が沈黙し、順位は年間最下位(前期5位、後期6位)に終わった。ブレイザーの持病である心臓病に痛風も加わるなど健康上の問題や、補強などへの資金注入に全般的に消極的になった球団の経営姿勢もあり、監督を退任し帰国した。 帰国後は南海の駐米スカウトを経て、セントルイス・カージナルスおよびフィラデルフィア・フィリーズでコーチを務め、その後フィリーズではアドバイザーに就任した。 息子のケントは日本球界の情報に詳しく、しばしば得た情報を父に伝えていたが、岡田が2004年に阪神の監督に就任したことは伝えなかったという。 2005年4月13日、アリゾナ州にて死去、満73歳没。 ケントはその後、コロラド・ロッキーズの環太平洋スカウトを経て、2010年5月22日からは南海の後身である福岡ソフトバンクホークスの駐米スカウトに就任した。
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