包囲軍の疲弊撤退とは? わかりやすく解説

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包囲軍の疲弊・撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:29 UTC 版)

千早城の戦い」の記事における「包囲軍の疲弊・撤退」の解説

やがて、護良親王の命を受けた吉野十津川宇陀宇智郡内郡)の野伏楠木軍に味方し幕府軍糧道遮断したこのため包囲している幕府軍人馬逆に飢えるようになり、毎日のように1、200騎が包囲軍から逃げようになったが、地理明る野伏襲われ討ち取られるか、馬や甲冑衣服をはぎ取られる有様だった。 千早城釘付けになっている幕府軍間隙縫い後醍醐天皇先帝)が閏2月24日隠岐国配所脱出し船上山入った天皇討幕綸旨全国発し、これに播磨国赤松則村伊予国河野氏肥後国菊池武時蜂起すると、千早城囲んでいた大名相次いで帰国した。そして、5月7日足利高氏によって京の六波羅探題陥落させられた。 5月8日午の刻午後12時頃)、尊氏によって六波羅陥落したという報せ千早城籠城軍、そして包囲していた幕府軍にも伝わった幕府軍諸将相談し一日でも退却が遅れれば野伏多数集結して山中の道が危なくなる可能性があるとして、千早城からの撤退決めた5月10日早朝幕府軍諸将は陣を撤収して10万騎の軍勢南都奈良)へと引き上げた。だが、大軍退却する当たり大混乱起き岩場突き当たって止む無く腹を切るもの、谷底落ちるもの、他人に踏み殺される者、あるいは野伏襲われるものが続出したが、ただの一戦交えなかった、と『太平記』語っている。結局大勢の兵が退却にあたり死亡したが、包囲軍の主だった将は戦死せず、同日夜半南都到着した5月8日関東において挙兵し新田義貞手薄となった鎌倉攻め5月22日鎌倉幕府滅亡することとなる。義貞の挙兵は、楠木正成討伐のために膨大な軍資金必要になった幕府新田荘に対して6貫もの軍資金をわずか5日納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなって幕吏殺害投獄したことに端を発していた。 鎌倉幕府滅亡したのは、千早城の戦い終了した12日後のことであった

※この「包囲軍の疲弊・撤退」の解説は、「千早城の戦い」の解説の一部です。
「包囲軍の疲弊・撤退」を含む「千早城の戦い」の記事については、「千早城の戦い」の概要を参照ください。

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