劇団薔薇座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:35 UTC 版)
劇団薔薇座には数多くの俳優・声優が在籍した。その後のメンバーの活躍分野は多岐に渡り、安崎求のようにミュージカル分野で活躍する者から、岸野幸正のように自らの劇団を持ち舞台で活躍する者、玄田哲章や高島雅羅、鈴置洋孝のように洋画・アニメーションで売れていった者、菅谷勇のようにナレーションを得意分野とする者、戸田恵子のようなマルチタレントに位置する者など、多様な人材が育った。他には、有本欽隆、石塚運昇、いまむらのりお、江森浩子、椎橋重、志賀克也、鈴木清信、竹村拓、津久井教生、鉄炮塚葉子、田中完、富本牧子、豊田真治、中村秀利、難波圭一、筈見純など。 野沢の指導のスパルタぶりは凄まじく、当時その厳しさを知る人からは「演劇界の修羅」とまで評されていた。ダメ出しの際には「馬鹿」「死ね」などの罵声を容赦なく飛ばし、アルミ灰皿やパイプ椅子を投げつけられ、当たりそうな時に避けると「なんで避けたんだ!!」と怒鳴られることなども日常茶飯事であったという。そのため劇団も「那智」とひっかけて「ナチ収容所」など、散々なあだ名が付けられた。玄田哲章によれば、野沢は稽古中サングラスを掛けサーベルを振り回していたこともあったという。また、野沢が演出する舞台に出演した井上和彦は、ダメ出しにピーナッツを投げつけられたという。戸田恵子は「『他人に聞くな。自分で(演技をして)恥をかけ(そして学べ)』という言葉が口癖の、厳しい信条の持ち主だった」と語っている。公演中やリハーサル中に、劇場ロビーで玄田が倒れていたなどの話もある。鈴置洋孝は「ここを経験していたから頑張れた」と語り、石塚運昇も当時の感想を「ハードすぎて生活できなかった」とコメントしている。野沢がパーソナリティを務めるラジオ番組では薔薇座の紹介もされていたのだが、それを参考に入団した者は「パーソナリティ・ナッちゃん」と「演出家・野沢那智」のギャップに圧倒され、「こりゃ詐欺だ」と嘆いていた。 晩年でも野沢の演技指導に対する厳しさは健在で、パフォーミング・アート・センターにおける講義の際は竹刀を持って指導していたが、薔薇座時代のメンバー曰く、これでも薔薇座の座長の頃と比べて丁寧に指導していたとのこと。卒業生の杉村憲司によると、野沢自身が実演をした際に本人の声量の大きさでスピーカーが破損し、本人も気づかず、また生徒も指摘しなかったため授業にならなかったことも少なくなかったという。
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