創作物における歴史
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元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』にはすでに大石と瑤泉院の別れの場面が描かれている。 『赤穂鍾秀記』によれば、瑤泉院のもとに内蔵助がやってきて「近々遠国へ行くために御暇乞いの挨拶に来た」と言い、昔の事を話して帰っていった。去り際に内蔵助は瑤泉院お付きの侍に歌書が入っていると称する一封を渡していった。12月15日、まだ討ち入りについて知らないうちに封書をあけると、中には瑤泉院から預かった金子七千両の使い道を書いた書類が入っていた。 天保7年 - 明治5年(1836年 - 1872年)に書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』の第七回にもすでにこの話が載っている。 また明治4年(1871年)10月16日守田座初演の左団次一座による河竹黙阿弥作『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』でもこの場面は描かれている。 『南部坂雪の別れ』はその後桃中軒雲右衛門の口演により浪花節の人気演目をになり、明治45年(1912年)には口演の筆記本も出ている。 さらに同じく明治45年(1912年)には立川文庫の本にもこの話は収録され、 1910 - 1917年の尾上松之助による忠臣蔵の映画にもこの場面は登場する。 また昭和13年(1938年)11月には、今日でも上演される真山青果の元禄忠臣蔵の一編として『南部坂雪の別れ』が歌舞伎座で上演されている。 戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、映画やドラマにおける「南部坂雪の別れ」の瑤泉院の描写は時代により変化しているという。今日のドラマでは、瑤泉院は大石が本心を偽っている事に気づかずに大石を罵るいわば「浅はかな女」という「ネガティブな」描かれ方をされるが、これは映画忠臣蔵黄金期末期にあたる1962年に公開された『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』以降、忠臣蔵の主力がテレビドラマに移ってからの描かれ方で、それ以前の映画では、口には出さずとも大石の真意に気付く映画もあり、本心に気付かなかったお詫びに討ち入り後の内蔵助に会いに雪の中を駆けつけるものもある。
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