前半期の占領期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:31 UTC 版)
「ナチス・ドイツによるチャンネル諸島占領」の記事における「前半期の占領期間」の解説
チャンネル諸島の占領軍司令官は、フランス軍政当局の支配下にあり、フランス占領の一環として扱われた。しかしドイツの総統アドルフ・ヒトラーは、チャンネル諸島の占領が来たるべきイギリス本土占領のモデルケースとなるとみており、重要視していた。このためチャンネル諸島には、比較的大規模な軍団が駐留することになった。 チャンネル諸島の占領に当たったのは319歩兵師団(ドイツ語版)であったが、1941年の独ソ戦開始以降は、イギリスがチャンネル諸島の奪還に動くと見たヒトラーによってさらに増強され、1943年にはドイツ軍最大規模となる4万人まで拡張されている。これはジャージー島では住民3人に対し1人の兵士、ガーンジー島においては1対1の割合であり、フランス本土の120対1の割合に比べても極めて大きい。 兵士たちはホテルや旅館などの施設や空き家などに別れて居住することになったが、それでも収容しきれず、高い頻度で一般家庭にも宿泊することになった。島民に対しては食費や洗濯代などの対価が支払われたが、島民にとっては大きなストレスとなった。ただし一部の島民とドイツ軍兵士の間には交流が生まれているが、ドイツ軍当局はこのような事態を秘密にしている。 1941年末に、連合軍の占領下にあったフランス委任統治領シリアから、ドイツ人が追放された。ヒトラーはこれに対する報復として、チャンネル諸島に居住するイギリス生まれの島民を追放するよう命令し、1942年9月から1943年3月にかけて2200人の島民が追放され、フランス国内の強制収容所に収容されている。 占領下において島民の間に大きな病気が流行することはなかったが、1942年にはジャージー島で強制労働者から発疹チフスが蔓延し、ドイツ軍兵士の間に多数の死者が出ている。
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