前半戦―アテナイの攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 00:29 UTC 版)
「第一次ペロポネソス戦争」の記事における「前半戦―アテナイの攻勢」の解説
その頃、ペルシアの支配下にあったリビア王イナロスがエジプトの大部分をペルシア王アルタクセルクセス2世から離反させ、反旗を翻した。イナロスはアテナイに援軍を要請し、アテナイはちょうどキュプロスにいた艦隊200隻を送った。その一方でアテナイはギリシアの敵とも矛を交えており、複数の戦線に軍を分散させて戦っていた。紀元前460年とその翌年にアテナイはコリントス・エピダウロス軍と戦い敗れたが、ケクリュファレイアではペロポネソス艦隊を破った。また、アイギナとの戦争も始まったが、こちらはアテナイ優勢に進み、アイギナ市を包囲した。 アテナイが複数の戦線に軍を分散させていることからコリントスは手薄であったメガラに攻め込んだ。コリントス側はメガラを防衛しようと思えばアテナイはアイギナに展開していた軍を呼び戻さねばならないと考えたが、アテナイはアイギナの軍を動かさず、老年隊(51から59歳)と若年隊(18と19歳)を動員してミュロニデス指揮の元にメガラに送った。彼らはコリントス軍と互角に戦い、陣地を固守し、両軍共に引き上げた。老人たちに嘲笑されたコリントス軍は12日後に戻ってきたが、アテナイ軍に敗れた。その時コリントス軍の多くは周りを溝で囲んだ袋小路の私有地に入り込んでしまい、アテナイ軍に包囲されて全滅させられた。 同じドリス人ということでスパルタと長年同盟を結んでおり、ボイオス、キュティニオン、ネソネオンなどの都市を含むドリスにアテナイの同盟国ポキスが侵攻し、戦争が勃発した。そこで幼年の王プレイストアナクスに代わって将軍ニコメデス率いるスパルタ重装歩兵1500人とその同盟国軍10000人がドリスへ派遣され、ポキスに占領した都市を手放す条約を強いた。しかし、海路で帰ろうにもクーサ湾をアテナイ艦隊が、陸路で帰ろうにもゲラネイア峠を越える陸路はアテナイとメガラとペガイが押さえていたため、ボイオティアに向かった。 それに対し、アテナイはアルゴス軍10000人その他と同盟国を合わせた計14000人の軍で出撃したが、そのうちテッサリア騎兵は途中でスパルタ側に裏切った。そして紀元前457年にタナグラの戦いが起こり、両軍共に多数の死者を出したものの、スパルタとその他の同盟軍の勝利に終わった。そしてスパルタとその同盟国軍はメガラに入り、ゲラネイア峠を越えて帰国した。 アテナイはミュロニデス率いる軍をボイオティアに送り、オイノフュタでボイオティア軍を破り、タナグラの防壁を崩しフォキスとロクリスを支配下に置き、テバイを除く全ボイオティアを勢力下に置いて戦局を盛り返した。その後すぐにアイギナがアテナイに屈服し、アイギナは防壁を崩し、船舶を提供し、貢金を収めることになった。さらにアテナイはトルミデス率いる艦隊を送り、彼らはペロポネソス半島を周航し、スパルタの造船所を焼き討ちし、カルキスを落とし、シキュオンに上陸してシキュオン人を破った。
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