分遣隊の編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 05:57 UTC 版)
「ウラジオストク巡洋艦隊」の記事における「分遣隊の編成」の解説
ウラジオストク巡洋艦隊は、1903年6月7日に旅順で公式に編成された。艦隊編成に際し、「海上からのウラジオストク防備」、「日本海軍艦隊戦力の一部を太平洋艦隊主力の駐留する旅順から逸らすこと」、「洋上通商破壊の遂行」が任務として与えられた。 艦隊は太平洋艦隊第1司令官補将官旗を掲げた1等装甲巡洋艦「ロシア(英語版)」を旗艦に、1等装甲巡洋艦「グロモボーイ」、「リューリク」、1等防護巡洋艦「ボガトィーリ(英語版)」から編成された。旗艦の「ロシア」は、太平洋艦隊第1司令官補であった海軍少将エヴァルト・フォン・スタケリベルク(ロシア語版)男爵が坐乗した。 これらに加えて、ウラジオストク防備部隊には同港にあった義勇艦隊(ロシア語版)所属の蒸気船「ヘルソーン」と「モスクワ」も編入されることが予定されていた。また、航洋砲艦「コレーエツ」、「マンジュール」、「ボーブル」、「シヴーチ」が「要塞補助」として配備され、機雷敷設艦「アレウート」が機雷敷設のため、輸送艦「カムチャダール」と「ヤクート」が港湾防備のため、航洋水雷艇である第201号水雷艇、第202号水雷艇、第209号水雷艇と6隻の沿岸水雷艇が港湾の防備と機雷敷設のため配備されることになっていた。 7月から8月にかけて、「リューリク」と2等防護巡洋艦「ボヤーリン」の先導によりさらに7隻の航洋水雷艇がウラジオストクへ到着した。しかし、砲艦と蒸気船「モスクワ」はウラジオストクへ来なかった。「モスクワ」はのちに「スモレンスク」と称された高速蒸気船で、義勇艦隊が所有したクルーザーの中では最速の20knの速力を誇っていた。この艦の欠如は、艦隊の行動力へ大きく影響を及ぼした。「ヘルソーン」も本来19.5 knの速力を持っていたが、ボイラー不調によりこの速力の発揮は見込めず、従って実戦への投入は限定的なることが予想された。 1903年9月には、母港を旅順からウラジオストクへ移した。そこでは、すでに同港にあった10隻の水雷艇と補助巡洋艦「レーナ」(蒸気船「ヘルソーン」から改名された)がウラジオストク巡洋艦隊に編入された。こうして、ウラジオストク巡洋艦隊の戦力は総勢装甲巡洋艦が新旧3隻、新型の防護巡洋艦が1隻、戦力としては不安のある補助巡洋艦が1隻、長距離航海は困難な水雷艇が10隻となった。事実上、戦術的に有効な戦力として見込めるのは3隻の装甲巡洋艦と防護巡洋艦1隻だけであった。航洋砲艦は清の各地に派遣されており、開戦時に全ての艦が合流を断念した。 ロシアと大日本帝国との関係は日に日に悪化しており、ウラジオストク巡洋艦隊は来るべき開戦に備え、朝鮮海峡にて訓練を積んだ。
※この「分遣隊の編成」の解説は、「ウラジオストク巡洋艦隊」の解説の一部です。
「分遣隊の編成」を含む「ウラジオストク巡洋艦隊」の記事については、「ウラジオストク巡洋艦隊」の概要を参照ください。
- 分遣隊の編成のページへのリンク