出生から真田氏の自立とは? わかりやすく解説

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出生から真田氏の自立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:16 UTC 版)

真田信繁」の記事における「出生から真田氏の自立」の解説

永禄10年1567年)または元亀元年1570年)、真田昌幸当時武藤喜兵衛名乗る)の次男として生まれた。母は正室山手殿通称は、長男の信幸が源三郎称し信繁は源二郎称した真田氏信濃国小県郡国衆で、信繁祖父にあたる幸隆(幸綱)のところに甲斐国武田晴信信玄)に帰属し伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻越後国の上杉氏との抗争西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家足軽大将として活躍し武田庶流武藤氏養子となっていたが、天正3年1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄昌輝戦死したため、真田氏継いだ。 幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代引き継いだ信繁は父に付き従い甲府甲府市)を離れ岩移った考えられている。天正7年1579年)には武田上杉間で甲越同盟締結され上杉方との抗争収束するが、一方で相模後北条氏との甲相同盟破綻したため、上野国引き続き緊張状態にあった天正10年1582年3月には織田徳川連合軍侵攻により武田氏滅亡し真田氏織田信長恭順して上野国吾妻郡利根郡信濃国小県郡所領安堵され、信繁関東守護として厩橋城入城した滝川一益のもとに人質として赴く同年6月本能寺の変により信長横死すると武田遺領空白域化し上杉氏後北条氏三河国徳川家康三者武田遺領を巡る争い発生する天正壬午の乱)。滝川一益本能寺の変によって関東離れる際に信繁同行させ、木曾福島城信繁木曾義昌引渡した真田氏上杉氏帰属し自立し天正13年1585年)には第一次上田合戦において徳川氏戦っている。従属の際に信繁人質として越後国送られ信繁には徳川方帰属し信濃国衆である屋代氏旧領与えられたといい、天正13年1585年6月24日屋代氏旧臣諏訪久三宛に安堵状発給している。慶長5年以前信繁領は上田市西塩田前山村で、上田全体千貫以上を所持していた。

※この「出生から真田氏の自立」の解説は、「真田信繁」の解説の一部です。
「出生から真田氏の自立」を含む「真田信繁」の記事については、「真田信繁」の概要を参照ください。

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