再編とその後の活動
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1948年1月~3月、華東軍区と華東野戦軍は、以下のような兵団編制に再編された。この時、華東野戦軍は約36万人を数えた(軍区は約38万人)。 第1兵団(粟裕兵団) - 司令員兼政治委員粟裕、副司令委員兼第一政治委員葉飛、第二政治委員金明、参謀長張震、政治部主任鍾期光第1縦隊 第4縦隊 第6縦隊 第2兵団(山東兵団、許譚兵団) - 司令員許世友、政治委員譚震林第7縦隊 第9縦隊 第13縦隊 渤海縦隊 - 1948年2月編成 第3兵団(陳唐兵団) - 司令員陳士榘、政治委員唐亮第3縦隊 第8縦隊 第10縦隊 第4兵団(蘇北兵団、韋吉兵団) - 司令員韋国清、政治委員陳丕顕(兵団に随行せず)、副政治委員吉洛第2縦隊 第11縦隊 第12縦隊 1948年5月上旬、中央軍事委員会は、陳毅を中原局第二書記と中原軍区第一副司令員に任命した(華東野戦軍司令員と政治委員を兼務)。5月21日、中央軍事委員会は、粟裕に華東野戦軍指揮の全権を付与した。6月~7月、華東野戦軍第1、第3、第4、第6、第8、第10縦隊、両広縦隊(旧東江縦隊)と中原野戦軍第9、第11縦隊は、粟裕の統一指揮の下、豫東戦役を発動し、約9万人の敵軍を撃滅した。 8月、山東兵団は、膠済路西段(周村、張荘)、膠済路中段(濰県)、津浦路中段(兗州)等の戦役を連続して行い、約14万人の敵軍を撃滅した。同時に、陳唐兵団は、中原野戦軍陳謝兵団と共に洛陽を解放し、約2万人の敵軍を撃滅した。蘇北兵団は、前後して益林、塩(城)南、隴海路東段、衆興と連水等の戦役・戦闘を行い、約2万人の敵軍を撃滅した。 1948年秋、華東野戦軍主力は、中原野戦軍の第9、第11縦隊と一部軍区部隊と協同で、済南戦役を発動し、約10万人の敵を撃滅し、国民党軍第二綏靖区司令王耀武を捕虜にし、青島等少数の都市を除き、山東省を解放した。同年11月上旬、華東と中原の両野戦軍は、一部軍区部隊と協同で淮海戦役を進行し、約55万5千人の敵軍を撃滅し、長江以北を解放した。
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