兵32期クラスヘッドとは? わかりやすく解説

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兵32期クラスヘッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:02 UTC 版)

堀悌吉」の記事における「兵32期クラスヘッド」の解説

1883年明治16年8月16日大分県速見郡八坂村(現・大分県杵築市)の矢野弥三郎農業)の次男として生まれる。母はタマ大分県速見郡日出町(現)の士族の娘)。父の矢野弥三郎は、農業以外に醤油醸造などの事業手掛け助役などの公職に就き私塾開いての子供たちに学問教え漢詩作るのが趣味であるなど、有能多才な人物、かつ人格者として知られ家計には余裕があった。 悌吉は10歳時に堀正次の養子となり、堀家戸主となった。ただし、義父堀正次は、悌吉との養子縁組前に死去しており、かつ堀家には家族がなく、堀家絶やさないための名義だけの養子であり、引き続き矢野弥三郎息子」として生活したデフォーロビンソン・クルーソー』を読んだこと、あるいは日清戦争勃発明治27年) がきっかけで、海軍士官志した杵築中学校(現:大分県立杵築高等学校)から海軍兵学校入校(兵32期)。杵築中学校校長や、父の矢野弥三郎は堀の兵学校受験反対した。父は、学費の心配は要らないから他の学校行け、と堀に言ったという。 兵32期同期生には、山本五十六塩沢幸一嶋田繁太郎吉田善吾らがいる。山本五十六とは、肝胆相照らす盟友間柄であった兵学校席次は、明治34年入校時には3番190名、明治37年卒業時には首席192であった塩沢幸一(兵32期次席)と常に首席競い入校時と1年次塩沢首席譲ったが、その後首席(クラスヘッド)を通した戦艦三笠」乗組の海軍少尉候補生として、1905年明治38年5月27日日本海海戦参戦した。「三笠艦上から、次々沈んで行くロシア海軍艦艇惨状目の当たりにしたことは堀に大きな影響与え、堀の戦争観基本となった

※この「兵32期クラスヘッド」の解説は、「堀悌吉」の解説の一部です。
「兵32期クラスヘッド」を含む「堀悌吉」の記事については、「堀悌吉」の概要を参照ください。

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