兵32期クラスヘッド
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1883年(明治16年)8月16日、大分県速見郡八坂村生桑(現・大分県杵築市)の矢野弥三郎(農業)の次男として生まれる。母はタマ(大分県速見郡日出町(現)の士族の娘)。父の矢野弥三郎は、農業以外に醤油醸造などの事業を手掛け、村の助役などの公職に就き、私塾を開いて村の子供たちに学問を教え、漢詩を作るのが趣味であるなど、有能・多才な人物、かつ人格者として知られ、家計には余裕があった。 悌吉は10歳の時に堀正次の養子となり、堀家の戸主となった。ただし、義父の堀正次は、悌吉との養子縁組の前に死去しており、かつ堀家には家族がなく、堀家を絶やさないための名義だけの養子であり、引き続き「矢野弥三郎の息子」として生活した。 デフォー『ロビンソン・クルーソー』を読んだこと、あるいは日清戦争の勃発(明治27年) がきっかけで、海軍士官を志した。杵築中学校(現:大分県立杵築高等学校)から海軍兵学校に入校(兵32期)。杵築中学校の校長や、父の矢野弥三郎は堀の兵学校受験に反対した。父は、学費の心配は要らないから他の学校に行け、と堀に言ったという。 兵32期の同期生には、山本五十六、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾らがいる。山本五十六とは、肝胆相照らす盟友の間柄であった。 兵学校の席次は、明治34年の入校時には3番/190名、明治37年の卒業時には首席/192名であった。塩沢幸一(兵32期次席)と常に首席を競い、入校時と1年次は塩沢に首席を譲ったが、その後は首席(クラスヘッド)を通した。 戦艦「三笠」乗組の海軍少尉候補生として、1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦に参戦した。「三笠」艦上から、次々に沈んで行くロシア海軍艦艇の惨状を目の当たりにしたことは堀に大きな影響を与え、堀の戦争観の基本となった。
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