六甲まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/06 04:44 UTC 版)
1936年 長崎県に生まれたが、まもなく奈良県へ移転 1959年 東京大学在学中、共産主義者同盟へ加盟 1960年 六・一五国会突入に参加 1963年 大学院終了後、神戸大学へ勤務。翌年結婚 1965年 - 1966年、吉本隆明が主催する雑誌『試行』に『六甲』1〜5章を連載。最終部に「不安をこの世界に深化拡大することによって告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう。」という呼びかけがあり、最終行は「私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。」となっている。散文詩あるいは断章集といった文学的形式を取りながらあえてアジテーションであるかのように、読者との直接的出会いを呼びかけている。この逆説を生きたのが彼の生涯だった、と言ってよい。作品「六甲」は、美しい六甲の風景のなかでまどろんでいたい自己に対する告発のインナースペース(内宇宙)における展開だった。それはテーマとしてインナースペースに留まることはできず、〈関係としての原告団〉を現実空間に生み出そうとするものとなる。3年後自己の無意識の〈不安〉による告発表現であった全共闘運動と出会ったとき、当然にも〈関係としての原告団〉は現実化するに至る。 自己の無意識と情況との偶然の出会いによる盛り上がりといった性格が強く、華々しい盛り上がりが去った後は一部の政治青年を除き、運動を持続できなかったのが全共闘運動だった。松下の場合は、自己の展開が先にあり〈関係としての原告団〉が現実化したものなので、周囲の盛り上がり盛り下がりには無関係にテーマを追求、展開していけた(行かざるをえなかった)。
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