公理の形式性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 22:53 UTC 版)
公理にもとづく数学の定式化は、記述の定式化を促し、さらに数学をものの内在的な意味からはなれた形式的な記号の操作だと見なす考え方を導いた。公理とは前提として任意に選ばれた論理式にすぎず、その論理式から単なる記号操作で得られる論理式が定理であるという立場をとる論理学者や数学者もいる。このような考え方にたてば、ユークリッド幾何学における点や直線・平面は、論理式によって指定される性質を満たす限り、抽象的な記号操作の対象にすぎず、現実世界におけるいかなる物体を表しているわけでもないことになる。現実世界における点や直線、平面の形をしたものやそれらの間の関係性を調べることは、ユークリッド幾何学の意味(セマンティックス)を推察する助けにはなるが、公理にもとづく定理の推論(ユークリッド幾何のシンタックス)がそこから直ちに従うわけではないことになる。 このような立場に立てば、「点」、「直線」、「平面」といった言葉の選択はまったく任意なものであり、別の用語を選んだとしてもそれらの間にユークリッド幾何学の関係性を仮定するならばまったくおなじ体系が得られることになる。 このような「公理は論理式にすぎない」という考え方は(しばしば揶揄を込めて)「ビールジョッキ思想」と呼ばれている。上のような置き換えを行うと例えば「2直線は1点で交わる」という命題は「2つの机は1つのビールジョッキで交わる」という、みかけ上全く意味の無い命題になるが満たしている論理式は置き換え前と同じものなので頓着しない。これは丁度「2(x+y)=2x+2y」という命題の「x」と「y」を「u」と「v」に置き換えて「2(u+v)=2u+2v」としても数式としては差異がないのと似ている。ビールジョッキ思想で問題となっている言葉・記号の選択の任意性はすでに19世紀の論理学者たちの間で問題になっており、その議論の一端はルイス・キャロルによる『鏡の国のアリス』にも反映されている。『アリス』の登場人物ハンプティ・ダンプティは勝手に新しい単語を作ったり、既存の単語を別の意味に用いたりして主人公のアリスを混乱させる。つまりハンプティ・ダンプティは英語ならぬ「ハンプティ・ダンプティ語」を作ってそれを話しているのである。
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