先史から琉球王朝までとは? わかりやすく解説

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先史から琉球王朝まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 01:02 UTC 版)

瀬底島」の記事における「先史から琉球王朝まで」の解説

先史時代貝塚グスク時代遺構発見され瀬底グスク(ウチグスク)では、青磁染付けされた陶磁器出土している。伝承によると、ウチグスク周辺生活していた7世帯瀬底島開闢したとされ、1469年第一尚氏王統最後尚徳王死去すると、同系の今帰仁按司一人の子供がウチグスクに住み渡り瀬底島村落形成したといわれている。また、沖縄本島中部具志川石川うるま市の一地域)からの移住者が、集落築いたとも伝えられている。 『球陽』(1394年条)には、瀬底島島民によって放たれ家畜農作物食い荒らしたと、沖縄本島健堅村の住民非難したが、島民はこの苦情聞き入れなかったという。『球陽』(1736年条)には、本部間切々の農地狭く、木を焼き払って田畑開墾したという。そこで、土地余裕のある瀬底島に、本島から海を渡って石嘉波移転した島内には水田はなく、また麻疹天然痘などの疫病が度々発生し1826年飢饉による困窮のため、瀬底金銭借り入れている。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底親雲上である上間家の一人1712年に清へ渡航した際、持ち帰った木像祀ったのが始まりとされる代々上間家は本部間切地頭代務め1772年沖縄本島全域疫病流行した際、間切全土復興支援行った。特に5代目貧民救援尽力した功績認められ1831年王府から掛軸上布与えられた。

※この「先史から琉球王朝まで」の解説は、「瀬底島」の解説の一部です。
「先史から琉球王朝まで」を含む「瀬底島」の記事については、「瀬底島」の概要を参照ください。

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