億年のなかの今生実南天
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
秋 |
出 典 |
四遠 |
前 書 |
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評 言 |
森澄雄は平成7年病魔に冒されて以降、同22年に久遠の旅に出るまでの15年間ほゞ病臥に明け暮れる毎日であった。会合で人の面前に出るのは、たいてい後の「杉」森潮主宰の押す車椅子上の姿だった。とはいえ「杉」主宰としての仕事を疎かにすることは一切なく、作句への情熱も衰えなかったと聞く。常人にない程の持久力の源泉は一体何か、白髪で上品、華奢としか云えない森澄雄にお逢いするだけの者には随分解せぬことであった。 さて九十歳の森澄雄が書いた自伝エッセイ「俳句燦々」(角川)を再読すると、戦中の北ボルネオで三百キロの道程を二百日もかけてのジャングルでの「死の行軍」を語っている。「雨中を足が三十センチも沈む湿地で大砲を運ぶのだが銃弾や手榴弾も捨てるわけにはいかない、先ず重い濡れ毛布や食料の缶詰を捨てる‥、やがてもう歩けないという限界になると兵は手榴弾を抱きまた銃口を喉に当て自ら命を絶ってゆく‥。病死や自決の兵士はジャングルに丁重に葬り墓標脇に俳句を記す。それが隊長としてできる唯一の務めであった。」という。また最愛の妻を失ったのち、「大腸癌を6回切除、次に脊椎管狭窄症で車椅子使用となり、後に脳溢血で左半身不随、机に向う以外は臥床の身となる。しかし病床でもクヨクヨすることなく、窓から天空や樹々の梢を眺めていた。」として、「人間は広大な宇宙の中の一点、人生もまた永遠に流れる時間の中の一点に過ぎぬ。俳句は虚空と流れる時間の今の一瞬をとらえる大きな遊びだ。」と書いている。 掲句で森澄雄は樹上の赤い実南天をもって、これまでの人生のすべてを凝縮したものとして比喩に用いているのではないか。 写真提供:Cafe terrace 1丁目 |
評 者 |
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備 考 |
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