備中加茂城の戦いとは? わかりやすく解説

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備中加茂城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/03 18:29 UTC 版)

上山元忠」の記事における「備中加茂城の戦い」の解説

天正10年1582年)、羽柴秀吉備中国諸城調略仕掛け加茂城を守る桂広繁上山元忠生石治家のもとに蜂須賀正勝生駒親正堀尾吉晴派遣して加茂城からの退城勧告したが、三将はこれに応じなかった。蜂須賀正勝は元忠のもとへ再度書状送り毛利氏離反して織田氏降れば多く領地与えられるであろう旨を告げ秀吉からの起請文太刀加茂付近賀茂神社神官持たせて元忠へ届けさせた。元忠は再三調略にも応じず、秀吉から送られ起請文太刀は輝元のもとへ届けて毛利氏への忠節示したまた、桂広繁生石治家にも再三調略が行われており、桂広繁は元忠と同じく断固として拒否したが、生石治家は調略応じた生石治家は元々備中石川氏の家臣毛利氏家臣となって日が浅く毛利氏対す忠誠心薄かったためと考えられている。 同年4月25日秀吉城攻め委ねられ宇喜多忠家林重真の守る備中冠山城猛攻加え秀吉家臣加藤清正先駆けとなって冠山城陥落させる。さらに5月2日には宮路山城も降した宮路山城を降伏させた勢い乗り秀吉加茂城攻撃を開始加茂城の東の丸を守る生石治家は秀吉調略に応じていたため、東の丸秀吉の兵を引き入れた生石治家は夜半加茂城本丸の桂広繁使者送って退城勧告した。この勧告対し桂広繁一族右衛門尉上って拒絶の意を返答し東の丸鉄砲撃ち掛けた。これによって戦闘開始し生石治家は秀吉案内して丑の刻から申の刻にかけて、桂広繁の守る本丸と元忠の守る西の丸激しく攻めたてた。桂広繁と元忠は協力して防戦努め村上五右衛門尉や内藤右衛門尉らが戦死した屈せず逆に敵兵数十人を討ち取って羽柴軍を撃退した。 これに対して小早川隆景5月3日鵜飼元辰使者として元忠に書状送り、元忠の功を称賛した5月8日には輝元が元忠へ書状送って功を賞し太刀一腰銀子10送っている。輝元は更に6月10日にも元忠へ書状送り、元忠の武功対し誠にもって感悦し、感謝するばかりである」と述べている。

※この「備中加茂城の戦い」の解説は、「上山元忠」の解説の一部です。
「備中加茂城の戦い」を含む「上山元忠」の記事については、「上山元忠」の概要を参照ください。

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