備中への退去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 00:07 UTC 版)
しかし、永禄8年(1565年)6月に之景が家臣の秋山藤五郎に所領の安堵を約束した文書が出された後、香川氏が西讃岐で活動していた形跡が見られなくなる。また、その秋山藤五郎に対して香川五郎次郎(之景)が充てた某年月3日付の書状ではとある島に退避していることを示唆している。一方で、永禄11年11月25日付で将軍足利義昭の命で細川藤賢から備中国の細川通菫に充てた書状には備前児島における三好氏との戦いでの働きを賞するともに香川にも知らせるように命じている。こうした経緯から、永禄8年頃に三好氏の再度の侵攻を受けた之景が讃岐を追われて香川氏の勢力圏であった備中国小田郡にあった神島に追われて、近隣の浅口郡に拠点を持つ細川通菫や通菫を支配下に置いていた毛利氏の庇護を受けながら反攻の機会を窺っていたと推測されている。
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