個別交渉と三者の思惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:52 UTC 版)
明治8年(1875年)1月22日、大阪へ到着した木戸と板垣による会談が、まず井上・小室・古沢の同席のもと行われ、民選議院開設についての話し合いが行われた。つづいて29日、木戸と大久保の会談が行われ、木戸の政府復帰が決定される。このように当初は大久保と板垣に直接の接触はなく、三者三様の思惑を抱いていたことが伺える。 大久保は、木戸を政府へ復帰させることにより、自らの権力集中に対する批判を和らげる良い機会と考え、この会談に応じたが、板垣に対しては政権に復帰させる必要性を感じていなかったため、当初大久保・板垣両者は面会にいたらなかった。 木戸は、三者協議において板垣と連合することにより大久保の専権を抑制し、自らの発言権を回復する意図があったことから、板垣とともに政府に復帰することを強く望んでいた。 板垣は、この会議で木戸を利用して議会政治導入を大久保に約束させることを企図しており、議会制導入に積極的であった木戸に、議会早期開設の必要性を説き、木戸を通じて、大久保が立憲体制を政府方針とすることを画策した。また板垣は西郷隆盛の参議復帰も同時に望んだが、西郷はなぜか板垣からのこの提案を記した書簡を受け取らず、使者に対しても居留守を使ってまで追い帰すという謎の行動を取った。大久保は当初、議会制(立憲政治・政党政治など)の導入に対しては消極的であった。 なぜなら、 第一に、欧米列強の圧力に対抗するための根本的な法整備や国力増進のためには、天皇の権威のもとで薩長が権力を集積し、一貫した政策を継続できる現体制のほうが現実的であること、 第二に、「自由民権運動」の看板を掲げながら、思想よりはむしろ感情で行動する失業士族の多い当時の日本の国情を踏まえれば、『政党政治の早期断行には「小党分立による国政の迷走」というリスクが伴う』と、想定できたからである。 しかし、木戸を政府に復帰させたいことと、また「板垣を在野で放置して過激派と結びつかれるよりも、政府につなぎとめておいた方が、政府への反対運動を分断できる」と考え、態度を軟化させた。
※この「個別交渉と三者の思惑」の解説は、「大阪会議」の解説の一部です。
「個別交渉と三者の思惑」を含む「大阪会議」の記事については、「大阪会議」の概要を参照ください。
- 個別交渉と三者の思惑のページへのリンク