信西の執政とは? わかりやすく解説

信西の執政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)

平治の乱」の記事における「信西の執政」の解説

保元元年1156年保元の乱勝利した後白河天皇は、同年9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制発令した。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想強く宣言したこの新制は、荘園整理令主たる内容としていた。鳥羽院政期全国多く荘園形成され各地国務遂行めぐって紛争起きていた。この荘園整理令はその混乱収拾して、全国荘園国衙領公領天皇統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制成立への大きな契機となった新制評価されている。その国政改革立案推進したのが、後白河側近である信西であった信西改革実現のために、記録所設置する長官である上卿には大納言三条公教就任実務担当する弁官からは右中弁藤原惟方左少弁源雅頼右少弁藤原俊憲信西嫡子)が起用され、その下で21人の寄人荘園領主から提出され文書審査本所間の争論裁判あたった後白河が「暗主」であるという信西言葉は、この記録所寄人だった清原頼業九条兼実後年語ったのである)。さらに内裏復興にも着手して保元2年1157年10月再建した。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し公事行事整備官人綱紀粛正取り組んだ。この過程信西とその一族台頭目覚ましく高階重仲の女を母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務担当する一方で藤原朝子後白河乳母)を母とする成憲・脩憲はそれぞれ遠江美濃受領となった信西自身は、保元の乱敗死した藤原頼長所領没収し後院領に組み込み、自らはその預所になるなど経済基盤確保にも余念がなかった。

※この「信西の執政」の解説は、「平治の乱」の解説の一部です。
「信西の執政」を含む「平治の乱」の記事については、「平治の乱」の概要を参照ください。

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