信号場跡
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2007年(平成19年)9月時点では、当信号場跡附近からの線路跡が富山県道196号笹津停車場線となっていた。2008年(平成20年)時点、2009年(平成21年)11月時点でも同様、2車線の道路であった。この道路は地鉄笹津駅跡附近まで続いていた。
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信号場跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 14:56 UTC 版)
信号場廃止後は羽幌線廃止まで、留萠駅構内の羽幌線用操車線群へ留萠本線側から構内渡り線を使用せずに深川方と直接往来できるよう、当信号場の西側端に当たる位置に分岐が設けられた。この構内渡り線をバイパスする線は、元々戦時中に現在の東雲町1丁目から2丁目にかけて建設された軍需工場の北海道人造石油留萌工場への専用線の送り線だったものを再利用して留萠本線へ接続したもの。この専用線送り線は留萠駅構内から留萌川を渡って旧信号場の西端付近まで本線の北側を並走した後、少し北側へ膨らみながら築堤の高度を上げて旧信号場の東側端に当たる位置、丁度、現・国道232号が跨線している場所で留萠本線を跨線し、工場敷地脇へ敷かれた専用線本線へ並走しながら築堤の高度を下げて合流した。また専用線本線からは留萠駅方へスイッチバック状に戻る戻り線があり、留萠本線の南側の少し離れた位置を並走して旧信号場の西端より手前で留萠本線へ合流していた。専用線本線からは東側へ90°カーブする2本が現・留萌市立病院辺りにあった工場へ、戻り線からは西側へ90°カーブする1本が現・北海道留萌土木現業所辺りにあった工場付帯の何らかの施設(留萌研究所?)へ分岐していた。戦後間もなく工場と共にこれらの専用線も、僅かに頭書の部分を残して撤去された。
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