信号士官長時代
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「ウィリアム・ヘイズン」の記事における「信号士官長時代」の解説
1880年12月15日、第19代大統領ラザフォード・ヘイズはヘイズンを准将に昇進させ、陸軍信号司令部士官長に任じた。その在任期間においては、実運用に腐心した前任者アルバート・マイアー准将と異なり、基礎データの収集に注力したと評価されている。 しかし、ここでも軍上層部を公然と批判することをやめなかった。当時の陸軍信号司令部の職掌には気象局の管理が含まれており、1882年から1883年にかけての第1回国際極年に際しては、北極の気象データを収集することを目的とするレディ・フランクリン湾遠征隊を組織した。1881年夏に出発したアドルファス・グリーリー大尉率いる24名の遠征隊は、1882年に派遣された補給船が悪天候により遠征隊との接触を断念したため、北極点から約500マイルの位置で支援もなく越冬するという危機に陥った。1883年、アーネスト・A・ガーリントン大尉率いる救助活動もまた失敗に終わった。ようやく1884年の救助隊がグリーリー隊に接触することに成功したときの生存者は6名だけだった。ヘイズンは、陸軍長官ロバート・トッド・リンカーンが、ガーリントン隊による救助が失敗したのち救助隊の再派遣を拒み、グリーリーの妻ヘンリエッタの運動による大衆の批判を浴びるにいたってようやく腰を上げたその反応の鈍さを問責した。リンカーンはヘイズンの言動を毀誉褒貶であるとし、ヘイズンは軍法会議の結果有罪とされ、チェスター・アーサー大統領から譴責処分を受けるに至った。一方で新聞各紙はヘイズンを支持し、リンカーンに対して批判的であった。 1885年、主に南北戦争の回想で構成された自伝『戦歴の話』を出版。その後、健康状態の悪化に伴って執務が困難になり、1886年12月、先の遠征隊の隊長アドルファス・グリーリーが信号司令部の長を正式に代行することになる。翌年1月、ヘイズンは、グロバー・クリーブランド大統領主催のレセプションに出席した後に体調を崩し、16日、腎不全で死亡した。『ニューヨーク・タイムス』紙は、死亡記事の中でヘイズンを「攻撃的・好戦的」と称し、その持ち味が戦場での活躍に寄与すると同時に、平時においては大きな敵を作る要因となったと評した。遺体はアーリントン国立墓地に埋葬された。 ヘイズンの妻である『ワシントン・ポスト』紙の社主ワシントン・マクリーンの娘、ミルドレッド・マクリーンは、ヘイズンの死後、海軍大将ジョージ・デューイと再婚している。
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