供給不足と伊那電車の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 05:54 UTC 版)
「諏訪電気」の記事における「供給不足と伊那電車の設立」の解説
初代社長は松本出身で東京在住の辻新次が就任した。資金難に苦しみながらも1900年、砥川支流東俣川に郡内初の発電所となる落合発電所(出力60kW)が完成。電力供給事業を開始した。しかし当初想定した電灯需要のみならず、従来水車動力を用いていた製糸工場の用水・製糸機械動力需要が急速に高まって供給不足に陥ったため、1903年に落合発電所の発電機を追設して出力を120kWに増強。1909年には落合発電所上流の東俣川蝶ヶ沢に蝶ヶ沢発電所(出力250kw)を設置、翌1910年には落合発電所の発電機を交換して出力200kWに増強したが、郡内各工場の配電申し込みに応じきれなかった。 この間、1907年には関連会社として、のちの国鉄飯田線の前身となる伊那電車軌道株式会社が東京市京橋区の諏訪電気本社内に設立され、辻が社長を兼務した。諏訪電気は伊那電車と配電契約を結び電力を供給したが、資金調達に難航しながら諏訪地方に利点がない鉄道路線を小刻みに延伸し続ける伊那電車に対し、慢性的な需給逼迫状態の電力を割くことが、諏訪郡内大口需要家の不信を招く結果となった。 諏訪郡内の製糸事業者らは1912年、「数年来苦慮シテ改善ヲ会社ニ交渉セシモ改善ノ実ヲ挙クル能ハズ」として、諏訪電気とは別に、郡外の電力会社である松本電灯株式会社(のち中央電気松本支社)から受電して製糸工場に配電する電気供給事業経営許可申請書を逓信大臣に提出し、この事業を行う岡谷工業電気株式会社の設立を図った。この事態を受けて諏訪電気は、ただちに岡谷工業電気を買収するとともに、辻に代わって諏訪電気創設時からの出資者でもあった小口銀行(平野村)の小口長蔵が社長に就任した。
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