供用中当時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/20 04:00 UTC 版)
1928年に最初の橋が竣工した(1913年とする説もあり)。出来た当初は広島県立広島第二中学校(現観音高校)の通学路としても使われた。1944年の台風で橋脚が曲がり、1945年8月の原爆投下(爆心地から約1.45km)には耐え被爆者の避難路となり、9月の枕崎台風にも耐えたが、10月の洪水で落橋した。写真の橋へは1951年に復旧された。 その後、橋脚部が沈むなど老朽化に伴い、1960年代に車の通行は禁止されたが、近くの住民の生活道として、歩行者及び自転車専用橋として使われ続けた。新観音橋は勾配があり、また舟入病院に行くには廻り道になるためである。また橋の前には、大雨や洪水、強風、地震の時には新観音橋を渡る様に呼びかける看板も立てられた。2000年に入り、橋の特異性が『ズームイン!!朝!』等でもとり上げられた。しかし、さらなる老朽化により落橋の危険があるとして、2002年6月17日を持って供用は中止された。これまで、観音橋を使っていた人は上流側にある新観音橋を通行することになった。 供用が中止される際に、市民の間より掛け替えの声も上がったが、現時点では実現していない。 1930年ごろの広島市。天満川最下流の橋が観音橋。 1945年被爆後の広島市。左地図の位置関係を参照。落橋していないとわかる。 2001年4月撮影供用中当時の路面。観音側より 2001年4月撮影供用中当時のアクセス道。観音側より
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