来島通総(くるしま みちふさ) 1561~1597
来島通総
来島通総
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 23:06 UTC 版)
このとき戦死した伊予の来島通総は、海戦に参加した大名(注・江戸時代以降のカテゴライズである「1万石以上の知行」という区切り)としては唯一の戦死者となった。家督は次男の来島長親が継いだ。日本の捕虜となっていた姜沆は「通総が全羅右水営で戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と少々の誤認を含んだ上で、“家督相続により、その指揮系統が継承される”日本式の風習を記している。なお通総の庶兄の得居通幸も、朝鮮水軍との海戦で死亡している。
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