余市時代
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1927年(昭和2年)2月、兄・梅太郎の子が病死したため、故郷の余市に戻る。そのまま実家でニシン漁を手伝うが不漁の上、再び病を得て、余市で療養することとなる。この時期に幼なじみの中里凸天とともにガリ版刷り同人誌『コタン』を作り(8月完成)、また、余市の遺跡調査や古老への聞き取り調査などを行う。 10月3日、並木凡平に認められ『小樽新聞』に初めて短歌が掲載され、以後継続的に短歌や随筆、研究などが掲載される。11月3日には余市の歌会に出席し、並木凡平・稲畑笑治ら小樽の歌人たちと対面。賞賛をもって迎えられ、彼らと親交を結ぶようになる。彼らが中心となって創刊された『新短歌時代』にも参加し、多くの作品を掲載している。 同年12月から翌1月にかけて、『小樽新聞』に「疑ふべきフゴツペの遺跡」を連載。余市のフゴッペで見つかった古代文字らしき壁画と石偶について、小樽高商(現小樽商大)の西田彰三の「アイヌのものである」という意見に対して「アイヌのものではない、ニセモノではないか」と異議となえた。後に北斗、バチラー八重子と並んで、アイヌ3大歌人に数えられることになる白老の森竹竹市は、この連載により北斗のことを知り、大いに感動して、のちに親交を結ぶようになる。
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