伝承される「宗円の功績」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 10:15 UTC 版)
「永谷宗円」の記事における「伝承される「宗円の功績」」の解説
末裔である永谷家や、取引相手である山本家(山本山)によって後年記された文献では、「宗円の功績」が次のように語られている。 中国から日本にもたらされた茶は、南宋に渡った栄西が『喫茶養生記』で茶の効能を説いたように、当初は寺院での修行や薬用として飲用されていた。やがて各地で栽培が広がるが、宇治の特定の茶師は、幕府の許可を得て高品質の碾茶の製造を独占していた。富裕層が好んだ抹茶とは違い、庶民は色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶」を飲んでいた。 そんな中、宗円は15年の歳月をかけて製茶法を研究し、味もすぐれた緑の新しい煎茶(正確には「だし茶」である)を作り上げた。この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。宗円の煎茶を販売し大きく利益を得た「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判25両を贈った。 宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも積極的に伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。
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