伊豆半島周遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/20 22:20 UTC 版)
つげが伊豆半島を訪れたのは1967年(昭和42年)8月10日、54歳のときである。山光荘は、開業1年目でまだ固定客も少なかったという。その後、テレビ『遠くへ行きたい』に取材されたり、横溝正史原作の映画にも利用された。同行は唯一の友達T君こと立石慎太郎。西伊豆は当時まだ未開発で鄙びており、行くなら今のうちだと噂に聞き立石の車で三島から伊豆半島へ入った。1泊目は湯ヶ島の瀬古峡に面する「湯川屋」に投宿。梶井基次郎も絶賛したというあたりの渓谷美に、修善寺温泉などより格段に優れていると絶賛している。つげらは、その後、天城峠越えはせず、来た道を少し戻るとひどい悪路の土肥峠を越え、途中宇久須の黄金崎を見て西伊豆に入っている。堂ヶ島から松崎を通過し、鄙びた岩浜で多少泳ぐ。雲見でで少し遊び妻良へ向かおうとするが、道が未開通でやむなく松崎へ引き返したところで日が暮れたため、宿探しをするがどこも満員で断られ、門構えの高級感がつげ好みではなかったが、長八の宿「山光荘」に宿泊する。その日は、土蔵の2階の山光荘で最も上等の部屋である「長八の部屋」に通された。料理は鯛の尾頭付きで女中が3人付き、盆踊りの夜で浜風に乗って太鼓の音が聞こえてきた。翌日は、半島突端の石廊崎、下田を見学し、伊東近くの八幡野の鄙びた釣り宿「つり作」に泊まっている。「つり作」では小学2,3年の変にませた女児がおり、仕切りに話しかけられる。女児は全身に蚊に刺されたようなおできのように化膿した炎症を持っていたが、女児は宿の子ではなく、宿の主婦の妹の子で預かっていると分かる。つげは、後にこのエピソードを『庶民御宿』に利用した。「つり作」では、立石が急に不機嫌になりだし、翌朝には宿の女児と2人で女児がヤッパノ岬(八幡野岬)と呼ぶ岬の橋立という場所へ行く。柱状節理の岩場で、つげは思わぬ奇勝を見つけ感激する。
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