京都市立成徳中学校とは? わかりやすく解説

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京都市立成徳中学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 04:01 UTC 版)

京都市立成徳中学校
Seitoku junior high school
過去の名称 成徳尋常小学校
成徳国民学校
成徳小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 京都市
設立年月日 1947年(昭和22年)5月5日
創立年月日 明治2年(1869年)9月11日
創立者 下京第9番組
閉校年月日 2007年(平成19年)
共学・別学 男女共学
所在地 600-8433
京都府京都市下京区高辻通室町西入繁昌町290
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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京都市立成徳中学校(きょうとしりつ せいとくちゅうがっこう)は、京都府京都市下京区高辻通室町西入繁昌町にあった公立中学校。ここでは、同校の前身となる成徳小学校(せいとくしょうがっこう)、かつて同校地に所在した京都市第二高等小学校と、元学区である成徳学区(せいとくがっく)についても述べる。

概要

京都市立成徳中学校は、明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つである成徳小学校がもとになり、戦後の学制改革に際して昭和22年(1947年)に開校した新制中学校である。平成19年(2007年)に京都市立下京中学校に統合され、閉校した。

校名は、明治9年(1876年)の白楽天町への移転に際し、当時の京都府知事槇村正直により、『易経』の乾の卦に対する一節「君子以成徳為行、日可見之行也」(君子は徳を成すを以って行となす、日々これを行にあらわすべし)にちなんで名づけられた小学校名を引き継いでいる[1][2]

校章は、学校が位置した下京第11区(→「#成徳学区」)の「十一」の文字を図案化した成徳小学校校章の中央に「中」を配したものになっていた。

沿革

成徳小学校(旧制小学校)

  • 明治2年(1869年)9月11日 - 下京第九番組小学校として下京区新町通四条下る四条町に設立された[3]
  • 明治5年(1872年)- 番組とする改正により、下京第十一区小学校と改称[1]
  • 明治8年(1875年)4月 - 下京区室町通綾小路下る白楽天町を移転先として用地を買収[3]
  • 明治9年(1876年)1月11日 - 白楽天町に移転。校名を成徳とする[3]。(跡地には石碑[4]が現存する。)
  • 明治25年(1872年)成徳尋常小学校となる。
  • 昭和5年(1930年)5月6日 - 旧第二高等女学校第二高等小学校校地(高辻通室町西入繁昌町)を取得した成徳学区が、成徳小学校新校舎の地鎮式を挙行[5]
  • 昭和6年(1931年)5月5日 - 新校舎落成式挙行[5]室町通綾小路下る白楽天町から下京区高辻通室町西入繁昌町(現在地)に移転[3]
  • 昭和16年(1941年)4月 - 国民学校令により、京都市成徳国民学校に改称[1]
  • 昭和22年(1947年)4月- 学制改革により京都市立成徳小学校となる[1]
  • 昭和23年(1948年)- 京都市立成徳小学校閉校[1]

成徳中学校(新制中学校)

  • 昭和22年(1947年)5月5日 - 学制改革により京都市立成徳中学校が成徳小学校に併置されて開校[6]
  • 昭和23年(1948年)- 成徳小学校が閉校になり、成徳中学校として独立[7]
  • 平成19年(2007年)下京区内の京都市立郁文中学校、京都市立尚徳中学校、京都市立皆山中学校、京都市立梅逕中学校の5校と統合し廃校。5校は京都市立下京中学校に統合される。

通学区域

成徳中学校の通学区域は、修徳小学校・豊園小学校・開智小学校・永松小学校の通学区域と、明倫小学校および有隣小学校の通学区域の一部であった[6]。 戦前の成徳小学校の通学区域は、成徳学区各町であった。

学校の特徴

校舎

1931年(昭和6年)竣工の鉄筋コンクリート造の地上3階建である。1920年代から30年代に多く建てられたが、現存する数少ない学校建築である。 京都の商工業の中心地に位置しているため、豊かな地域住民が多く、豪華な造りの学校を建てることができたといわれている[8]

廃校後も京都のモダン建築の1つとして、校舎が開放されることがあった[9]

外観
窓はアーチが使われ、1階の壁面は凝灰岩大谷石)や、玄関角には銅板装飾なども貼られており、豪華な印象を与えている。建築家フランク・ロイド・ライトが同じ頃に凝灰岩を多用していたため、彼の影響を受けて建てられたのではともいわれている[9]
成徳小学校講堂(登録有形文化財)
内観
玄関ホールは、タイルが張り巡らされている。階段は一枚板の段板が敷かれ、階段壁面にもタイルが貼られた豪華な造りをしている。手すりは石製でデザインにもフランク・ロイド・ライトの影響があったものと思われる[9]
成徳小学校屋根瓦

旧講堂

明治8年(1875年)から使われていた旧校舎の講堂を、京都府久世郡寺田村(現在の城陽市寺田)の高岳寺が明治42年(1909年)に買取り移築し、本堂として用いていた。平成18年(2006年)高岳寺が改修を行った際、棟札の記載などにより、成徳小学校からの転用と判明。その後、平成19年(2007年)に高岳寺からの寄贈により、車寄せ部分が「京都市学校歴史博物館」(元開智小学校)展示室入口(元校舎入口)に移転、取り付けられている。(登録有形文化財[10]

「栄養給食の先駆け」の石碑

栄養給食の先駆けとツタの校舎

昭和11年(1936年)、全国に先駆けて「学校栄養食事」と名づけられた給食が開始された。同年1月15日から虚弱・偏食児童の希望者に対して栄養改善のための「栄養給食」が実施された。それまで貧困児童・家庭対策として実施されていた給食とは異なり画期的であった[11]

校舎南側全面と東側北側の一部にナツヅタの木が特徴的に取り巻いているが、この木はその給食の栄養指導や調理に当たった職員によって植樹された。

浴衣登校と祇園祭

呉服店が多い地域でもあったため、呉服文化推進の一環で2000年頃から着物の着付け体験教室を開催したり、学生が浴衣で登校するなどが試みられた。

八坂神社の氏子の地域であるため、祇園祭に参加する生徒たちもいることで、かつて山鉾巡行の日は学校が休みとなっていたなど、祇園祭を受け継ぐ地域特有の文化が数多く根付いていた。

スタインウェイ・アンド・サンズのピアノ

昭和51年(1976年)終戦直後、進駐軍に接収されていたスタインウェイ( Steinway & Sons)のピアノが、日彰小学校より戻る[12]

閉校後の学舎と跡地利用

  • 平成23年(2011年)プール、テニスコート、職員室撤去。校舎グランド改修、新校舎建築。
  • 高辻通側に早咲き桜(春めき苗)を植樹。
  • 京都市立下京中学校成徳学舎として、部活動や体育祭でグランド、新館体育館を使用。
  • 新館は成徳学区の自治会館として各種団体が使用。
  • 本館は京都文化協会、市民大学院、祇園祭山鉾連合会、京都私学協会、学区民が使用。

京都市第二高等小学校

京都市第二高等小学校(きょうとしだい2こうとうしょうがっこう)は、京都市下京区の元成徳中学校の場所にかつて存在した高等小学校1887年明治20年)7月に下京区高等小学校として開校。京都市制により京都市下京高等小学校に改称ののち、1897年 (明治30年)には、第三高等小学校新設に伴い、京都市第二高等小学校に改称した。1922年大正11年)4月に第二高等小学校の校舎を利用して京都市立第二高等女学校が開校。1925年(大正14年)に京都市立第二高等女学校の移転が決まった後、1926年(大正15年)3月に閉校した。

その後1928年(昭和3年)4月に第二高等女学校が移転。同地を取得した成徳学区により成徳小学校の新校舎が1931年(昭和6年)建てられた。

軟式野球発祥の地

京都市第二高等小学校では、1919年(大正8年)7月に軟式野球大会が世界初で開催された。同校の校地(京都市下京区高辻通室町西入繁昌町)に位置する元成徳中学校校舎玄関入口西側に、軟式野球発祥の地として、バットとグローブを持つ少年銅像が建てられている[13]

年表

  • 1887年明治20年)7月1日 - 下京区高等小学校創立。下京区(当時)を通学区域とする[14]。(同日、上京区(当時)を通学区域とする上京区高等小学校創立[15]。)
  • 1889年 (明治22年)7月1日 - 京都市制により京都市下京高等小学校に改称。
  • 1892年(明治25年) - 下京区高辻通室町西入繁昌町に下京高等小学校が新築移転。
  • 1897年 (明治30年)4月1日 - 下京高等小学校が第三高等小学校新設に伴い、京都市第二高等小学校に改称。
  • 1908年(明治41年)4月 - 義務教育年限延長に伴い、修業年度を2か年とする。
  • 1922年大正11年)4月 - 第二高等小学校の校舎を利用して京都市立第二高等女学校が開校[16]
  • 1925年(大正14年)5月 - 京都市立第二高等女学校の移転が決まる[17]
  • 1926年(大正15年)3月 - 第二高等小学校閉校[18][19]

閉校後

  • 1928年(昭和3年)4月 - 第二高等女学校が京都市立二条高等女学校に改称[20]千本通二条下る東入主税町に移転[21]
  • 1930年(昭和5年)5月6日 - 旧第二高等女学校・第二高等小学校地を取得した成徳学区が、成徳小学校新校舎の地鎮式を挙行[5]
  • 1931年(昭和6年)5月5日 - 成徳小学校の新校舎落成式挙行[5]

成徳学区

成徳学区(せいとくがっく)は、京都市学区(元学区)のひとつ。京都市下京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなるかつての成徳小学校の通学区域であり、今でも地域自治の単位となる地域区分である。

明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した下京第9番組に由来し、同年には、区域内に下京第9番組小学校(のち校名は、楽天を経て明治9年(1876年)に成徳に改称[22])が創立した。明治5年(1872年)には下京第11区、明治12年(1879年)にはとなり下京第11組となった[2]。学区制度により明治25年(1892年)には下京第11学区となった[23]

昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、下京第11学区から成徳学区となった[2]。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが[24]、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。

成徳学区の通学区域

成徳学区に設けられた成徳小学校が、新制中学校の成徳中学校となったため、成徳学区の小学校の通学区域は、修徳小学校・豊園小学校・明倫小学校の3校に分けられていたが[2]、現在は全域が京都市立洛央小学校の通学区域となっている[25]

人口・世帯数

京都市内では、おおむね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[26]、成徳学区の区域に設定されている国勢統計区(下京区第16国勢統計区[27])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は3,096人、2,021世帯である。

地理

下京区の北東部に位置する学区であり、北側は中京区明倫学区(一部西端で本能学区)、東側は豊園学区、南側は修徳学区、西側は格致学区に接する。区域は、おおむね東は烏丸通、西は西洞院通、北は四条通、南は松原通であり、面積は0.219平方キロメートル[28]である。

成徳学区内の通り

成徳学区の町名

  • 水銀屋町
  • 二帖半敷町
  • 大政所町
  • 薬師前町
  • 鶏鉾町
  • 白楽天町
  • 山王町
  • 高辻町
  • 四条町
  • 船鉾町
  • 岩戸山町
  • 御影町
  • 函谷鉾町
  • 月鉾町
  • 郭巨山町
  • 童侍者町
  • 善長寺町
  • 矢田町
  • 新釜座町
  • 釘隠町
  • 糸屋町
  • 菅大臣町
  • 骨屋町
  • 小島町
  • 繁昌町
  • 堀之内町
  • 菊屋町

学区内にある祇園祭の山鉾と町

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e 『閉校記念誌 成徳』 (2007), p. 15
  2. ^ a b c d e 『史料京都の歴史 第12巻 (下京区)』 (1981), pp. 106–107, 「成徳学区
  3. ^ a b c d e 『京都市学区大観』 (1937), pp. 82–83, 「下京区成徳学区
  4. ^ 成徳尋常小学校跡”. 2025年9月6日閲覧。
  5. ^ a b c d 『閉校記念誌 成徳』 (2007), p. 33
  6. ^ a b c 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 236, 「京都市立成徳中学校
  7. ^ a b 京都市立中学校・総合支援学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月6日閲覧。
  8. ^ 元成徳中学校”. 京都モダン建築祭. 2025年2月5日閲覧。
  9. ^ a b c 京都モダン建築祭”. 2025年2月5日閲覧。
  10. ^ 博物館概要”. 京都市学校歴史博物館. 2025年2月5日閲覧。
  11. ^ 生田 (2018), p. 20.
  12. ^ 成徳中学校沿革史”. 元 成徳中学校. 2025年2月6日閲覧。
  13. ^ 生田 (2018), p. 21.
  14. ^ 『京都小学五十年誌』 (1918), pp. 153–154, 「第二高等小学校」.
  15. ^ 『京都小学五十年誌』 (1918), pp. 151–152, 「第一高等小学校」.
  16. ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 164, 「大11(1922)年」.
  17. ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 170, 「大14(1925)年」.
  18. ^ 『京都市学区大観』 (1937), pp. 170–171, 「第一高等小学校・第三高等小学校
  19. ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 172, 「大15・昭和1(1926)年」.
  20. ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 176, 「昭和3(1928)年」.
  21. ^ 『京都市学区大観』 (1937), p. 190, 「市立第二高等女学校」.
  22. ^ a b 京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
  23. ^ 明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件)明治25年6月3日府令第42号」『京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻』1892年、276-288頁。doi:10.11501/788418https://dl.ndl.go.jp/pid/788418/1/171 
  24. ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9537074/1/112 
  25. ^ 京都市通学区町名一覧(下京区)”. 2025年9月6日閲覧。
  26. ^ 用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
  27. ^ 令和2年国勢調査時点
  28. ^ 京都市地域統計要覧ウェブサービス国勢統計区別集計において、総務省統計局「地図で見る統計(jSTAT MAP)」に登録されている境界データから算出された数値として示される面積

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク




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