京都市立明倫小学校
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京都市立明倫小学校 Meirin elementary school |
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北緯35度0分19.69秒 東経135度45分30.97秒 / 北緯35.0054694度 東経135.7586028度座標: 北緯35度0分19.69秒 東経135度45分30.97秒 / 北緯35.0054694度 東経135.7586028度 | |
過去の名称 | 下京第三番組小学校 明倫尋常小学校 明倫国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京都市 |
設立年月日 | 明治2年(1869年)9月16日 |
創立者 | 下京第3番組 |
閉校年月日 | 平成5年(1993年)3月31日 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒604-8156 京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2 |
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京都市立明倫小学校(きょうとしりつ めいりんしょうがっこう)は京都市中京区にあった公立小学校。
概要
明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成5年(1993年)に京都市立高倉西小学校に統合され、閉校した。 校名の「明倫」は、開校時の基になった心学講舎の明倫舎にちなむ[1]。
閉校後の校地・校舎は、2000年(平成12年)4月に創立された「京都芸術センター」となっている[2]。1931年(昭和6年)に竣工し、閉校後も継承される建物は、近代日本の小学校建築として高く評価される[3]。
沿革
- 1869年(明治2年)- 心学講舎(明倫舎)の土地と建物の寄付を受け、下京第三番組小学校として錦小路通室町東入占出山町に創設(開校日:明治2年9月16日(旧暦))[3][4][5]
- 1875年(明治8年)
- 1892年(明治25年)- 明倫尋常小学校となる[4]
- 1931年(昭和6年)10月 - 新校舎落成(現在も「京都芸術センター」として残る)[3][5]
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により、明倫国民学校に改称
- 1943年(昭和18年)- 城巽女子商業学校開校のため閉校となった城巽国民学校の児童を龍池国民学校とともに受け入れる[4]
- 1947年(昭和22年)4月- 学制改革により京都市立明倫小学校となる
- 1991年(平成3年)10月17日 - 中京東支部南ブロック小学校統合準備委員会が、立誠小学校、生祥小学校、日彰小学校、明倫小学校、本能小学校の5小学校の統合と、新統合校の日彰小学校跡地での建設、1995年(平成7年)4月の開校を目指すことなどについて、京都市教育委員会と合意書を交わす[8]。
- 1993年(平成5年)4月1日 - 明倫小学校、本能小学校の統合により、元明倫小学校校地に京都市立高倉西小学校が開校(同日、立誠小学校、生祥小学校、日彰小学校の統合により、一次統合校として京都市立高倉東小学校が元生祥小学校校地に開校)[8]
- 1995年(平成7年)4月1日 - 京都市立高倉西小学校及び京都市立高倉東小学校の統合により、元日彰小学校地に京都市立高倉小学校が開校[9]。
通学区域
明倫小学校の通学区域は、明倫学区と、1943年(昭和18年)以降は城巽学区の一部を合わせた範囲であった。
関係者
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明倫学区
明倫学区(めいりんがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市中京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなる元明倫小学校のかつての通学区域と合致し、今でも地域自治の単位となる地域区分である。
明倫学区の沿革
明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した下京第3番組に由来し、同年には、区域内に下京第3番組小学校が創立した。
下京第3番組は、明治5年(1872年)には下京第3区、明治12年(1879年)には区が組となり下京第3組となった。設置された下京第3番組小学校は、明治8年に校名を明倫に改称した[7]。
下京第3組は、学区制度により明治25年(1892年)には下京第3学区となった[10]。
昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、下京第3学区から明倫学区となり、中京区に属した[1]。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが[11]、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。
明倫学区の通学区域
明倫学区の小学校の通学区域は、現在学区全域が京都市立高倉小学校となっている。
人口・世帯数
京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[12]、明倫学区の区域に設定されている国勢統計区(中京区第4国勢統計区[注釈 2])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は3,251人、1,856世帯である。
地理
中京区の中央部に位置する学区であり、北側は龍池学区(西端の一部が城巽学区)、西側は本能学区、東側は日彰学区、南側は下京区であり成徳学区(東端の一部が豊園学区)に接する。区域は、概ね北は三条通、南は四条通、東は烏丸通、西は西洞院通であり[2][13]、面積は0.213平方キロメートルである[注釈 3]。
明倫学区内の通り
明倫学区の町名
明倫学区には祇園祭の山鉾を出す町が13あり、小結棚町(放下鉾)・笋町(孟宗山)・天神山町(霰天神山)の町会所は指定文化財となっている[14]。
- 饅頭屋町
- 七観音町
- 手洗水町
- 笋町
- 烏帽子屋町
- 鯉山町
- 山伏山町
- 菊水鉾町
- 了頓図子町
- 観音堂町
- 三条町
- 六角町
- 百足屋町
- 小結棚町
- 炭之座町
- 御倉町
- 衣棚町
- 釜座町
- 骨屋町
- 玉蔵町
- 西六角町
- 橋弁慶町
- 姥柳町
- 不動町
- 占出山町
- 天神山町
- 西錦小路町
周辺
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脚注
注釈
出典
- ^ a b c 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』 (1985), pp. 326–327, 「明倫学区」
- ^ a b c 素晴らしきわがまち「明倫学区」 - ウェイバックマシン(2024年3月10日アーカイブ分)
- ^ a b c 『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020), p. 32, 「明倫小学校」.
- ^ a b c d e 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 64, 「京都市立明倫小学校」
- ^ a b c 『京都市学区大観』 (1937), pp. 71–72, 「中京区明倫学区」
- ^ a b 『京都叢書:新修 第16巻』, p. 85, 「明倫尋常小学校」
- ^ a b c “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
- ^ a b 京都市教育委員会 編『閉校記念誌 日彰 輝ける124年のあゆみ』京都市、1997年、64-65頁。
- ^ “学校の概要”. 京都市立高倉小学校. 2019年11月11日閲覧。
- ^ 明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件)「明治25年6月3日府令第42号」『京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻』1892年、276-288頁。doi:10.11501/788418 。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074 。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
- ^ a b 語りつがれるわがまち「明倫学区」 - ウェイバックマシン(2024年2月25日アーカイブ分)
- ^ 『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020), p. 18, 「明倫学区」.
参考文献
- 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』平凡社、1985年。doi:10.11501/9575674。ISBN 9784582477092。
- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
- 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年 。2025年9月5日閲覧。
- “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
- 「下京第三学区之部(碓井小三郎『京都坊目誌 下京之部 乾』(1915))」『京都叢書:新修 第16巻』光彩社、1968年、81-102頁。doi:10.11501/2997393 。
関連文献
- 『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系27〉、1979年。 ISBN 4-582-49027-1。
関連項目
外部リンク
- 素晴らしきわがまち「明倫学区」 - ウェイバックマシン(2024年3月10日アーカイブ分)
- 語りつがれるわがまち「明倫学区」 - ウェイバックマシン(2024年2月25日アーカイブ分)
- 学校変遷図|京都市学校歴史博物館
- 京都市地域統計要覧ウェブサービス
- 京都市教育委員会事務局:京都市立小・中・小中学校の通学区域
- 京都市立明倫小学校のページへのリンク