京都市立生祥小学校
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京都市立生祥小学校 Seisho elementary school |
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北緯35度0分25.4秒 東経135度45分55秒 / 北緯35.007056度 東経135.76528度座標: 北緯35度0分25.4秒 東経135度45分55秒 / 北緯35.007056度 東経135.76528度 | |
過去の名称 | 下京第五番組小学校 生祥尋常小学校 生祥国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京都市 |
設立年月日 | 明治2年(1869年)7月26日 |
創立者 | 下京第5番組 |
閉校年月日 | 平成5年(1993年)3月31日 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒604-8064 京都市中京区富小路通六角下る骨屋之町549 |
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京都市立生祥小学校(きょうとしりつ せいしょうしょうがっこう)は京都市中京区にあった公立小学校。
概要
明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成5年(1993年)に京都市立高倉東小学校に統合され、閉校した。 校名の「生祥」は京都府知事槇村正直につけられたとされるが、その名称の由来は不明である[1][2]。
沿革
- 1869年(明治2年)- 下京第五番組小学校として現在地に創設(開校日:明治2年7月26日(旧暦))[3]
- 1872年(明治5年)- 校名をかつての町組名(西雲組)にちなむ西雲に改称[4]
- 1876年(明治9年)- 校名を生祥に改称[3][5]
- 1893年(明治25年)- 生祥尋常小学校となる[6]
- 1901年(明治33年)- 高等科を設置し、生祥尋常高等小学校となる(高等科は義務教育年数が6年に延長された1909年(明治41年)に廃止)[6]
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により、生祥国民学校に改称
- 1943年(昭和18年)- 柳池国民学校が高等科(男子)のみとなったため初等科の児童を富有国民学校とともに受け入れる[7]
- 1947年(昭和22年)4月- 学制改革により京都市立生祥小学校となる
- 1948年(昭和23年)4月- 銅駝小学校の閉校に伴い銅駝学区の榎木町が通学区域となる[8]
- 1991年(平成3年)10月17日 - 中京東支部南ブロック小学校統合準備委員会が、立誠小学校、生祥小学校、日彰小学校、明倫小学校、本能小学校の5小学校の統合と、新統合校の日彰小学校跡地での建設、1995年(平成7年)4月の開校を目指すことなどについて、京都市教育委員会と合意書を交わす[9]。
- 1993年(平成5年)4月1日 - 立誠小学校、生祥小学校、日彰小学校の統合により、一次統合校として京都市立高倉東小学校が元生祥小学校校地に開校(同日、明倫小学校、本能小学校の統合により、元明倫小学校校地に京都市立高倉西小学校が開校)[9]。
- 1995年(平成7年)4月1日 - 京都市立高倉西小学校及び京都市立高倉東小学校の統合により、元日彰小学校地に京都市立高倉小学校が開校[10]。
通学区域
生祥小学校の通学区域は、戦前は元学区の生祥学区に一致していたが、戦中に柳池校が高等科のみの国民学校となったため柳池学区の一部[注釈 1]の初等科の生徒を受け入れ、戦後は、さらに学区の小学校舎が中学校に転用された銅駝学区の一部(榎木町)も含んでいた[8][4]。
関係者
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生祥学区
生祥学区(せいしょうがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市中京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなる元生祥小学校のかつての通学区域と合致し、今でも地域自治の単位となる地域区分である。
生祥学区の沿革
明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した下京第5番組に由来し、同年には、区域内に下京第5番組小学校が創立した。
下京第5番組は、明治5年(1872年)には下京第5区、明治12年(1879年)には区が組となり下京第5組となった。設置された下京第5番組小学校は、校名を西雲を経て明治9年に生祥に改称した[5]。
下京第5組は、学区制度により明治25年(1892年)には下京第5学区となった[11]。
昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、下京第5学区から生祥学区となり、中京区に属した[4]。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが[12]、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。
生祥学区の通学区域
生祥学区の小学校の通学区域は、現在学区全域が京都市立高倉小学校となっている。
人口・世帯数
京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[13]、生祥学区の区域に設定されている国勢統計区(中京区第22国勢統計区[注釈 2])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は1,882人、1,193世帯である。
地理
中京区の中央部に位置する学区であり、北側は柳池学区、東側は立誠学区、西側は日彰学区、南側は開智学区(下京区)に接する[2]。区域は、概ね北は三条通、南は四条通、東は寺町通、西は富小路通であり[1][14]、面積は0.128平方キロメートルである[注釈 3]。
生祥学区内の通り
生祥学区の町名
- 永楽町
- 式部町
- 円福寺前町
- 海老屋町
- 伊勢屋町
- 船屋町
- 大日町
- 白壁町
- 坂井町
- 梅屋町
- 桝屋町
- 朝倉町
- 骨屋之町
- 高宮町
- 弁慶石町
- 中之町
- 八百屋町
- 大黒町
- 蛸屋町
- 油屋町
- 鍛冶屋町
- 東魚屋町
- 大文字町
周辺
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脚注
注釈
出典
- ^ a b c 語りつがれるわがまち「生祥学区」 - ウェイバックマシン(2024年2月25日アーカイブ分)
- ^ a b c 素晴らしきわがまち「生祥学区」 - ウェイバックマシン(2024年3月10日アーカイブ分)
- ^ a b c 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 66, 「京都市立生祥小学校」
- ^ a b c d 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』 (1985), pp. 396–397, 「生祥学区」
- ^ a b c “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
- ^ a b c 『京都市学区大観』 (1937), pp. 73–74, 「中京区生祥学区」
- ^ 『閉校記念誌 生祥』 (2007), p. 91.
- ^ a b c 『閉校記念誌 生祥』 (1997), p. 81.
- ^ a b 京都市教育委員会 編『閉校記念誌 日彰 輝ける124年のあゆみ』京都市、1997年、64-65頁。
- ^ “学校の概要”. 京都市立高倉小学校. 2019年11月11日閲覧。
- ^ 明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件)「明治25年6月3日府令第42号」『京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻』1892年、276-288頁。doi:10.11501/788418 。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074 。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
- ^ 『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020), p. 20, 「生祥学区」.
参考文献
- 『閉校記念誌 生祥』京都市教育委員会、1997年。
- 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』平凡社、1985年。doi:10.11501/9575674。ISBN 9784582477092。
- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
- 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年 。2025年9月5日閲覧。
- “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
関連文献
- 『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系27〉、1979年。 ISBN 4-582-49027-1。
- 「下京第五学区之部(碓井小三郎『京都坊目誌 下京之部 乾』(1915))」『京都叢書:新修 第16巻』光彩社、1968年、123-132頁。doi:10.11501/2997393 。
関連項目
外部リンク
- 素晴らしきわがまち「生祥学区」 - ウェイバックマシン(2024年3月10日アーカイブ分)
- 語りつがれるわがまち「生祥学区」 - ウェイバックマシン(2024年2月25日アーカイブ分)
- 学校変遷図|京都市学校歴史博物館
- 京都市地域統計要覧ウェブサービス
- 京都市教育委員会事務局:京都市立小・中・小中学校の通学区域
- 京都市立生祥小学校のページへのリンク