京都市立本能小学校
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| 京都市立本能小学校 Honno elementary school |
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| 北緯35度0分21.1秒 東経135度45分15.63秒 / 北緯35.005861度 東経135.7543417度座標: 北緯35度0分21.1秒 東経135度45分15.63秒 / 北緯35.005861度 東経135.7543417度 | |
| 過去の名称 | 下京第二番組小学校 本能尋常小学校 本能尋常高等小学校 本能国民学校 |
| 国公私立の別 | 公立学校 |
| 設置者 | 京都市 |
| 設立年月日 | 明治2年(1869年)11月26日 |
| 創立者 | 下京第2番組 |
| 閉校年月日 | 平成5年(1993年)3月31日 |
| 共学・別学 | 男女共学 |
| 所在地 | 〒604-8231 京都市中京区蛸薬師通油小路東入元本能寺南町346 |
京都市立本能小学校(きょうとしりつ ほんのうしょうがっこう)は京都市中京区にあった公立小学校。
概要
明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成5年(1993年)に京都市立高倉西小学校に統合され、閉校した。 校名の「本能」は、本能寺の旧地であることにちなむ[1]。
自然科学の学習を実物により実施するために設けられた農園・花園である「学校園」を活用した教育に力が入れられ、閉校まで引き継がれた[2]。
閉校後の校地は、本能特別養護老人ホームと堀川高校本能館となっている[2]。
沿革
- 1869年(明治2年)- 下京第二番組小学校として空也町に創設(開校日:明治2年11月26日(旧暦))[3][4]
- 1872年(明治5年)- 校名を本能に改称[3][5]
- 1873年(明治6年)- 隣接する元本能寺南町に移転[1][6][注釈 1]
- 1889年(明治22年)- 本能尋常小学校となる[3]
- 1902年(明治35年)- 高等科を設置し、本能尋常高等小学校となる(高等科は義務教育年数が6年に延長された1908年(明治41年)に廃止)[4]
- 1924年(大正13年)- 高等科を設置し、本能尋常高等小学校となる[3][7]
- 1935年(昭和10年)- 高等科を廃しし、本能尋常小学校となる[3][7]
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により、本能国民学校に改称[3]
- 1947年(昭和22年)4月- 学制改革により京都市立本能小学校となる[3]
- 1954年(昭和29年)4月- 学校園が設置される[3]
- 1991年(平成3年)10月17日 - 中京東支部南ブロック小学校統合準備委員会が、立誠小学校、生祥小学校、日彰小学校、明倫小学校、本能小学校の5小学校の統合と、新統合校の日彰小学校跡地での建設、1995年(平成7年)4月の開校を目指すことなどについて、京都市教育委員会と合意書を交わす[8]。
- 1993年(平成5年)4月1日 - 明倫小学校、本能小学校の統合により、元明倫小学校校地に京都市立高倉西小学校が開校(同日、立誠小学校、生祥小学校、日彰小学校の統合により、一次統合校として京都市立高倉東小学校が元生祥小学校校地に開校)[8]
- 1995年(平成7年)4月1日 - 京都市立高倉西小学校及び京都市立高倉東小学校の統合により、元日彰小学校地に京都市立高倉小学校が開校[9]。
通学区域
本能小学校の通学区域は、本能学区に一致していた。
関係者
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本能学区
本能学区(ほんのうがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市中京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなる元本能小学校の通学区域と合致し、今でも地域自治の単位となる地域区分である。
本能学区の沿革
明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した下京第2番組に由来し、同年には、区域内に下京第2番組小学校が創立した。
下京第2番組は、明治5年(1872年)には下京第2区、明治12年(1879年)には区が組となり下京第2組となった。設置された下京第2番組小学校は、明治5年に校名を本能に改称した[5]。
下京第2組は、学区制度により明治25年(1892年)には下京第2学区となった[10]。
昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、下京第2学区から本能学区となり、中京区に属した[1]。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが[11]、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。
本能学区の通学区域
本能学区の小学校の通学区域は、現在学区全域が京都市立高倉小学校となっている。
人口・世帯数
京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[12]、本能学区の区域に設定されている国勢統計区(中京区第5国勢統計区[注釈 2])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は5,731人、3,007世帯である。
地理
中京区の中央部に位置する学区であり、北側は城巽学区、西側は乾学区、東側は明倫学区、南側は下京区であり格知学区[注釈 3]に接する。区域は、概ね北は三条通、南は四条通、東は西洞院通、西は堀川通であり[6][13]、面積は0.186平方キロメートルである[注釈 4]。
本能学区内の通り
本能学区の町名
- 三条油小路町
- 六角油小路町
- 山田町
- 藤本町
- 藤西町
- 橋浦町
- 壺屋町
- 錦堀川町
- 塩屋町
- 橋東詰町
- 本能寺町
- 越後町
- 越後突抜町
- 元本能寺南町
- 亀屋町
- 空也町
- 三文字町
- 四坊堀川町
周辺
- 京都市立堀川高等学校
- 本能寺跡 - 旧地には石碑が建つ[14][15]。
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脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』 (1985), pp. 302–303, 「本能学区」
- ^ a b 『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020), p. 37.
- ^ a b c d e f g h i j 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 68, 「京都市立本能小学校」
- ^ a b c d 『京都市学区大観』 (1937), pp. 70–71, 「中京区本能学区」
- ^ a b c “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
- ^ a b c 素晴らしきわがまち「本能学区」 - ウェイバックマシン(2024年3月10日アーカイブ分)
- ^ a b 『閉校記念誌 本能』 (1997), p. 90.
- ^ a b 京都市教育委員会 編『閉校記念誌 日彰 輝ける124年のあゆみ』京都市、1997年、64-65頁。
- ^ “学校の概要”. 京都市立高倉小学校. 2019年11月11日閲覧。
- ^ 明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件)「明治25年6月3日府令第42号」『京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻』1892年、276-288頁。doi:10.11501/788418。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
- ^ a b 語りつがれるわがまち「本能学区」 - ウェイバックマシン(2024年2月25日アーカイブ分)
- ^ “NA054 本能寺址”. 2025年9月13日閲覧。
- ^ “NA149 本能寺跡”. 2025年9月13日閲覧。
参考文献
- 『閉校記念誌 本能』京都市教育委員会、1997年。
- 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』平凡社、1985年。doi:10.11501/9575674。ISBN 9784582477092。
- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
- 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年。2025年9月5日閲覧。
- “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2025年9月5日閲覧。
関連文献
- 『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系27〉、1979年。 ISBN 4-582-49027-1。
- 「下京第二学区之部(碓井小三郎『京都坊目誌 下京之部 乾』(1915))」『京都叢書:新修 第16巻』光彩社、1968年、65-79頁。doi:10.11501/2997393。
関連項目
外部リンク
- 素晴らしきわがまち「本能学区」 - ウェイバックマシン(2024年3月10日アーカイブ分)
- 語りつがれるわがまち「本能学区」 - ウェイバックマシン(2024年2月25日アーカイブ分)
- 学校変遷図|京都市学校歴史博物館
- 京都市地域統計要覧ウェブサービス
- 京都市教育委員会事務局:京都市立小・中・小中学校の通学区域
- 京都市立本能小学校のページへのリンク