井深家とは? わかりやすく解説

井深家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/16 05:39 UTC 版)

井深宅右衛門」の記事における「井深家」の解説

室町時代初期信濃国起きた大塔合戦井深氏の名が登場する守護小笠原氏一族侍大将として善光寺入り現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後小笠原氏本拠である現在の松本市近く岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代むかえた武田信玄信濃侵攻により主家小笠原氏出奔したため隣接地武田側領主である大日方氏仲介依頼して武田氏従属した。 井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期井深茂右衛門重吉武田勝頼人質となっていた保科正光救出に功を挙げるなど、保科家重臣であったその子右衛門重光保科正之家老となり、正之の埋葬の際は祭式加わっている。他に許されたのは山崎闇斎吉川惟足服部安休(森蘭丸の孫)など7名である。重光男子3人が分家し幕末には7家に分かれ井深本家当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄務めた重光次男三郎左衛門重喬家の幕末当主日新館の武講頭であった井深数馬200石)で、次男・虎之助は石山家養子となり、白虎隊士として自刃長男井深基は愛知県西加茂郡碧海郡郡長などを務め曽孫井深大がいる。 宅右衛門の井深家は三男清大夫重堅に始まり、宅右衛門の子井深梶之助井深彦三郎である。 一族には白虎隊士として自刃した井深茂太郎戊辰戦争後民政局員を斬殺し(束松事件獄死した井深元治らがいる。

※この「井深家」の解説は、「井深宅右衛門」の解説の一部です。
「井深家」を含む「井深宅右衛門」の記事については、「井深宅右衛門」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「井深家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「井深家」の関連用語

井深家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



井深家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの井深宅右衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS