束松事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/16 01:47 UTC 版)
満足して滝沢村に帰ってきた伴らであったが、待っていたのは民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。当時全国的に横行していたニセ金ニセ札つくりは会津でも例外ではなく、容疑者を捕らえると久保村はろくに調べもせず斬首する圧政者として若松城下では誰知らぬ者はなかった。 その久保村は、明治2年民生局の廃止で職を免ぜられ、7月に故郷越前に帰藩することになる。久保村出発の日を探り出した 伴は高津仲三郎(思案橋事件で刑死)ら同志とともに束松峠(会津坂下町)で待ち伏せして斬殺、越後方面に逃亡、大安寺村(現・新潟県新津市)の坂口津右衛門のもとに身を寄せた。翌3年6月22日、伴の潜伏する大安寺村の慶雲庵に村松藩の捕吏が殺到、伴は捕吏の一人を板戸越しに刺した後相手方の怯んだ隙に自刃して果てたという。
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