五島のキリシタンとは? わかりやすく解説

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五島のキリシタン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/05 05:28 UTC 版)

五島崩れ」の記事における「五島のキリシタン」の解説

永禄5年1562年)、キリシタン日本人医師ディエゴ五島領主宇久純定病気の治療をした後、同9年1566年来島したルイス・デ・アルメイダ日本人ロレンソ修道士によって多く島民洗礼受けた天正4年1576年)に宇久純尭領主となったころには福江奥浦六方にも教会建てられ五島信者数2000人ほどに増加した。 しかし、天正7年1579年)に領主となった五島純玄キリシタン弾圧した21領主初代五島藩主)となった五島玄雅キリシタン再興したが、徳川家康による禁教令に従って棄教弾圧強められ1790年代初めに五島にいたキリシタンはほぼ壊滅した寛政9年1797年)、領主五島盛運が、人口減少した五島への領民移住大村藩藩主大村純尹依頼した。これを受けて同年11月28日西暦1798年1月14日)、大村藩外海地方黒崎村三重村など。現・西彼杵半島)のキリシタン農民たち108人が、大村藩家老片山波江指揮移住した福江島六方上陸した彼らは、平蔵(ひらぞう、福江市奥浦町)、黒(くろぞう、福江市大浜町)、楠原(くすはら、岐宿町)などに居着きその後3000余り宇久島を除く五島列島島々居住した大村のキリシタンたちが多数移住したのは、五島ではキリシタン取り締まり大村ほど厳しくなかったことと、藩の産児制限政策嫌ったことが原因といわれている。 五島五島へと皆行きたがる五島はやさしや土地までも。五島五島へと皆行きたがる五島はいなかの襟を見る という「五島キリシタン唄」が歌われたのはこのころであったが、やがてこの歌は 五島五島へと皆行きたがる五島極楽来て行って)みて地獄五島極楽行てみりゃ地獄二度と行くまい五島のしま と続くことになった五島には従来島民たちが耕作適した土地にすでに居住しており、農業適さない山間僻地や、漁をするにも不便な辺鄙な入り江離れ小島など、貧し土地に住むしかなかったためだった先住者たちから居付(いつき)農民入百姓呼ばれた彼らは、隠れキリシタン潜伏キリシタン)としてキリスト教の信仰続けていった。 慶応元年1865年)、大浦天主堂ベルナール・プティジャン神父浦上潜伏キリシタン信仰告白した。これを契機長崎潜伏キリシタンたちが信仰明らかにていった五島でも若松村の浦のガスパル与作大浦天主堂訪れて神父1000人以上のキリシタンがいることを告げた慶応3年1867年)、伝道士として五島戻った与作キリスト教司祭渡来知らせたことで各地代表者長崎渡り、さらに鯛の浦ドミンゴ次郎中心に五島のキリシタンの復活進められた。

※この「五島のキリシタン」の解説は、「五島崩れ」の解説の一部です。
「五島のキリシタン」を含む「五島崩れ」の記事については、「五島崩れ」の概要を参照ください。

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