五島のウシ飼育史(江戸時代まで)
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「五島牛」の記事における「五島のウシ飼育史(江戸時代まで)」の解説
酒詰仲男らの発掘調査により、五島市浜町の弥生時代(約2200年前)の貝塚から人骨とともに埋葬された牛骨が見つかり、すでにウシが飼育されていたことが判明した。この遺跡の発掘により、日本における家畜牛の歴史がより古いことが判明し、これが日本最古とされた。『肥前国風土記』の値嘉島(五島)に関する一節に「白水郎は馬・牛に富めり」という記述があり、ウシやウマが五島で飼育されていた。五島が宇野御厨の一部であった時代には、宇久島や小値賀島の牧で御厨牛が飼育され、貴族の牛車を引く良質なウシとして名を馳せた。ただし御厨牛の飼育の中心地は平戸を中心とする長崎県北地域で、かつ御厨牛は白斑のウシであり、黒毛和種の五島牛とは異なる。 小値賀島の観光名所「牛の塔」は、当時2つの島に分かれていた小値賀島の間を埋め立てて新田開発を行った際に数百頭に及ぶ役牛が犠牲になったことを悼み、領主の松浦定が建武元年(1334年)に建立したものである。 寛政元年(1789年)の古文書によると、小値賀島笛吹郷の人口が7,206人であったのに対し、ウシは7,062頭となっており、ウシの数が人口に迫るほどであった。在来種の小値賀牛は「正直牛」とも呼ばれ、体は小さくとも力は強く従順で、農耕牛として大いに活躍した。
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