五人組制度における教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:08 UTC 版)
次に掲げる掟は、天文八年正月一日付の「日新・貴久公連判の掟」である。 一、諸士衆中忠孝の道第一に相守、五人與中むつましく可交る事。一、領地多き衆は、七書を習ひ、人數かけ引昇具太鼓之合圖作法常々調練あるへき事。一、若き衆中ハ、武藝角力水練山坂歩行、平日手足をならすへき事。 但所領持幷無息衆中、其身相當之武道武藝心懸無之輩者、所帯没収之上重科たるへし。一、田地壹反ニ付、武用立候家之子壹人ツヽ、家内ニ可有養育事。一、陣中三十日、自飯粒引當無之、幷軍役出物等於遅滞者、所帯没収すへき事。一、諸士衆中、番狩普請、其外役務之間ニ者不致唯居、主人家之子女迄も、早朝より農業ニ出へき事。 但地頭領主不請免許候而、其所をはづし出候ハヽ、死罪たるべし。一、百姓幷又内之者ニ而も、獨身幷困窮之者あらハ、横目衆に非候共、早速直ニ可申出事。一、諸士衆中之子共、無免許候而出家成停止たるへき事。一、地頭領主幷奉行頭人下々之訴訟、則不致披露、又者邪成捌候ハヽ、不及取次、我等父子之目通ニ直ニ可申出候事。一、我等父子邪行聊尓之儀見聞候者、誰人ニ而も不差置諫言いたすべき事。右條ゝ、若違犯の輩あらハ、所持之衆者、必所領没収、無息衆中者、可加嚴科者也。 — 天文八年正月一日付「日新・貴久公連判の掟」 既述の通り天文8年(1539年)は、島津忠良が1月に薩州家・島津実久から加世田城を奪い、3月には平山城及び紫原城を、8月には市来城を落して島津実久を出水地方へ追いやり三州統一の口火を切った年であった。そのような状況下にあって、域内を結束させることは忠良にとって喫緊の課題であった。そのため、上は地頭、領主から、下は百姓に至るまでの規律を定めることになった。その頭書に五人組が書かれていることは、五人組が既に社会生活上の基本単位になっていたことを表している。また、「忠孝第一」、「武経七書の履修」、「武藝錬鍛・体力増強」等の諸教育も五人組制度の中で行われていたものと思われる。
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