久光一行の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)
久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿ではなく保土ヶ谷宿に予定を変更して宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士2人が探索に出ている。公儀御料である生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付で「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは無関係である」という届出をすると、奉行の引き止めも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。神奈川奉行からの報告を受けた老中・板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたが、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と虚偽の説明をしたため、神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府は憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。 大名行列に対する外国人の「不作法」については、久光らは江戸に到着して間もない6月23日、幕府に訴え書きを提出していた。その文面によれば、往路ですでに久光の行列は騎馬の外国人に遭遇していたところ、狭い東海道において、大名一行の通行にかまわず横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というものである。続けて「少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合はそのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法は慎むように達して欲しい」と訴えている。それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣も違うことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というものだったが、実際にはそのような通達を出していなかった。
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