中町に移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 00:29 UTC 版)
総持寺はもとは旧籠田町の籠田総門の北側にあった(現在、中央緑道と総門通りの交差点に建っている籠田総門跡の碑の付近)。以下の経緯により中町の現在地に移転した。 1924年(大正13年)頃、旧康生町にあった岡崎郵便局が手狭になったため、逓信省より岡崎市と岡崎商工会議所に対し移転候補地の打診があった。当時廃寺同様になっていた総持寺の檀家は、寺の敷地を岡崎市に譲渡しその代償で郊外に移転再建をすることを考え、敷地提供の願書を市に提出。1926年(大正15年)1月には檀家と市の合意がなされ工事着手の段階となった。 ところがこれに対し、日刊紙『三河日報』社長の岡田撫琴が先頭に立って国粋主義団体と共に反対運動を起こした。「総持寺は勅願寺で由緒ある寺ゆえ勝手に移転することはできない」というのがその理由であった。岡崎電灯の杉浦銀蔵や前岡崎商工会議所会頭の千賀千太郎もこれに呼応。市内各所で反対の演説をし、ついには暴力沙汰にもなった。市長の本多敏樹と商工会議所会頭の6代目深田三太夫が問題の解決を助役の小瀧喜七郎に依頼すると、反対派は小瀧の自宅に投石した。寺の住職も明け渡しを拒否したが、小瀧は移転を推し進め、1927年(昭和2年)に寺は中町に移された。 「此の事件を強行したのは、何等の理由なく反対したる為之を実行せぬ時には将来市の事業に悪影響を及ぼす事に鑑み之を執行したのである」と小瀧は回顧録の中で述べている。 1974年(昭和49年)1月11日、総持尼寺文書が岡崎市の文化財に指定された。文書は現在、岡崎市美術博物館に所蔵。
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