中山と結婚、引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:34 UTC 版)
夫人没後の中山の身の回りの世話を案じた周囲の勧めにより、中山は上京以来愛人関係にあった喜代三にプロポース。 1937年(昭和12年)12月3日、銀座の山野楽器社長山野政太郎夫妻の媒酌により丸の内会館で結婚。それを機に引退。ポリドールとの契約があと1年残っていたが、他社への移籍ではなく、結婚し家庭に入るということで不問となった。僅か4年余りの歌手生活であった。 戦時中は熱海へ疎開し、戦後も引き続き熱海で暮らした。 1950年(昭和25年)頃になると、戦後の混乱も一段落し、民謡が流行する兆しが見えると、ビクターからの依頼で三重県の出身で渋谷から出ていた菊丸という芸者を教えるようになり、ビクターの社長から「『喜代三』の名前を譲って欲しい」と中山に話があったが、中山が断り、彼女は旧名の文字を変え同じ読み方で「喜久丸」と名付けられた。『喜代三』の名前については、直弟子であった「喜代丸」からも譲って欲しいと相談があったが、中山が許さなかった。 1952年(昭和27年)12月30日、中山が65歳で死去。 結婚に際しては「喜代三が中山を支えられず、どうせすぐに離婚するに決まっている」などと中山の親族らに反対する者もあったが、結果的に生涯添い遂げた。中山は臨終間近の病床で喜代三の手を取り「よく支えてくれたね」と労った。
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