中央通りの発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:18 UTC 版)
戦後、「中央通り」と呼ばれるようになった県都・長野市の背骨は、高度経済成長やモータリゼーションの中、大きな変化を見た。 中央通りと昭和通りが交わる新田町交差点には、1954年(昭和29年)に長野県下初の交通信号機が設置された。その後、全国でもまだ珍しかったスクランブル交差点(1971年(昭和46年)、新田町交差点)、音響装置付信号機(1972年(昭和47年)、新田町交差点・末広町交差点)、パーキングチケット発給機(1987年(昭和62年)、全線)など、県下初となる設備がまず中央通りに導入されてきた。 沿道は長野市の商業の中心として大きく発展した。殊に新田町交差点界隈は「長野銀座」と呼ばれ、丸光百貨店→長野そごう(1957年(昭和32年)開店)、ながの丸善百貨店→ながの東急百貨店(1958年(昭和33年)開店)、ヴィナス(1968年(昭和43年)開店)、長崎屋長野店(1970年(昭和45年)開店)、ダイエー長野店(1976年(昭和51年)開店)と、多くの百貨店・大型店が立地し買い物客を集めた。歩行者の増加に伴い、1960年(昭和35年)には歩道にアーケードが設置され、1970年(昭和45年)には県下初の歩行者天国が実施されるようになった。
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