丙子戦争(1636年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
詳細は「丙子の乱」を参照 国・勢力指導者状況・目的清 ホンタイジ、ドルゴン、孔有徳、耿仲明、尚可喜等 朝鮮王朝を従属させるために攻撃。勝利 朝鮮王朝 仁祖、金自點等 明の冊封国として清に抵抗。敗北 明との騒乱が後金に経済的困窮と飢餓をもたらしたために、後金は朝鮮に国境近くの市場を開放させた。朝鮮も後金にワルカの宗主権を移管させた。馬100頭と虎100頭と豹の毛皮、綿400反、布15000切れが朝鮮王朝からホンタイジに贈られ、仁祖の兄弟が贈呈の使者となった。しかしホンタイジは、使者が拝礼を拒んだと手紙で不満を述べた。また、朝鮮の商人と市場は明との交易を続けて明の臣民を援助したため、ホンタイジは厳しく非難し、朝鮮の食糧は臣民にのみ与えられるべきだと言った。後金の時代から朝鮮は兄弟関係となっていたが、朝鮮としては明と冊封国の関係にあるために朝貢をする対象は明であり、女真を夷狄とみなしていた。そのためホンタイジは、清の建国後にみずから朝鮮に進軍した。 1636年12月9日、ホンタイジは朝鮮に対して満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗を率いた。漢人の支援は、陸の砲兵隊と海の分遣隊だった。明から帰順した孔有徳は江華島と椵島の攻撃に参加し、耿仲明と尚可喜も役割を果たした。清軍の勝利によって、朝鮮は清と君臣関係を結ぶことになった。明との国交を断つことや、清への朝貢、王子を人質として瀋陽に置くことなどが定められた。朝鮮は数名の王女を妾としてドルゴンに与えることを余儀なくされた。1650年にドルゴンは朝鮮の義順公主(英語版)と結婚した。王女の朝鮮名は義順で、李愷胤の娘であった。侵攻中に多くの朝鮮女性が清軍の手でさらわれ強姦され(英語版)、身代金を払って受け戻されたのちに清から解放されたが、家族からは歓迎されなかった。
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