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義順公主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 02:02 UTC 版)

義順公主
의순공주
睿親王六娶福晋

全名 李愛淑
出生 1635年
朝鮮
死去 1662年
朝鮮、漢城
配偶者 皇父摂政王ドルゴン
  端重親王中国語版ボロ中国語版
氏族 全州李氏
父親 錦林君 李愷胤
(養父:孝宗
母親 柳正順(文化柳氏)
(養母:仁宣王后 張氏
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義順公主(ぎじゅんこうしゅ、ウィスンコンジュ、의순공주)は、初の皇父摂政王ドルゴンの六娶福晋(六番目の正妃)。朝鮮王室出身で、父方からは第9代朝鮮国王成宗の玄孫の娘にあたり、母方からは第4代朝鮮国王世宗の曾孫である王族湖川君李玉根の玄孫にあたる(系譜参照)。名は李愛淑。養父母は第17代朝鮮国王孝宗とその正妃仁宣王后張氏

生涯

出自

第9代朝鮮国王成宗の玄孫である錦林君李愷胤(1591年 - 1673年)の三女として産まれる。生母はその継室慎夫人文化柳氏(1594年 - 1668年)。

政略結婚へ

1650年1月、新しく北京に入城し、朝鮮の新たな宗主国となった清の最大の権力者摂政王ドルゴンは正妃の嫡福晋博爾済吉特(ボルジギト)氏が亡くなると、朝鮮に遣いを出し、朝鮮国王孝宗に継室にふさわしい女性を選ぶよう要請した。結婚相手は王族か大臣の娘でよいとした[1]。使節の戸部尚書バハナが朝鮮に到着したとき、対応した役人の羅福は、孝宗の娘はまだ2歳であると説明した為[注釈 1]、バハナは王族の娘も結婚相手として考えられると提案した。20日後、朝鮮国王・成宗の子孫である錦林君李愷胤の娘である李愛淑が朝鮮国王・孝宗の養女としてドルゴンの妻に選ばれ、同時に李愛淑は朝鮮国王・孝宗によって義順公主と名付けられた[2]

公主が北京に到着して間もなく、ドルゴンは公主とその侍女たちの醜さを批判し、朝鮮側が不誠実であるとなじった[3]。 7ヵ月後、ドルゴンは狩猟中に亡くなった。その後、公主はドルゴンの甥のボロと結婚した。しかし、1652年には彼もすぐに亡くなり、彼女は未亡人となった。

朝鮮への帰還

1655年冬、父の李愷胤が冬至兼謝恩使として北京にやってきた。娘の境遇を知った彼は、宴の席で順治帝の前で娘の朝鮮帰国を涙ながらに懇願し、ようやく許可を得た。清朝は太子太保議政大臣の哈什屯(ハシュン)に公主を連れ帰るよう命じた[4]。翌年、義順公主は朝鮮に無事、帰国した[5]。孝宗は家臣に命じて、公主に一生涯の糧となる分の米を与えさせたが[6]、朝廷に無断で娘の返還を求めた李愷胤は、官僚から弾劾され、官職を剥奪される[7]。公主は世間から還郷女(ファンヒャンニョ)として蔑視され続けた。

1662年に義順公主は病死し、朝鮮国王顕宗は彼女のために盛大な葬儀をするよう命じた[8]

系譜

系譜
世宗
李祹
世祖
李瑈
漢南君朝鮮語版
李𤥽
懿敬世子
李暲
興安君
李衆生
成宗
李娎
湖川君
李玉根
中宗
李懌
鳳安君朝鮮語版
李㦀
益陽君朝鮮語版
李懷
義泉監
李機
徳興大院君
李岹
興原君
李瓊
龍川君
李壽鷴
李禮英 柳景深
宣祖
李昖
箕城君
李俔
定遠君
李琈
錦林君
李愷胤
柳正順
仁祖
李倧
孝宗
李淏
義順公主
李愛淑

伝記資料

脚注

注釈

  1. ^ 実際、当時孝宗には6人の娘がおり、長女の淑安公主はその年にすでに結婚していた。

出典




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