下野諸侯の動静とは? わかりやすく解説

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下野諸侯の動静

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「下野諸侯の動静」の解説

下野国唐沢山城佐野氏は、先代佐野宗綱天正13年1585年元旦戦死した後、北条氏から氏忠を迎え当主とした。佐竹氏から養子迎えることを画策していた佐野房綱山上道及は不満を持ち上洛して豊臣秀吉裁可訴えていたが、北条氏はこれを無視したこのため北条氏家臣らは出奔し、房綱や山上らは上方豊臣氏仕えていた。小田原征伐構想されると房綱らに対し関東地方絵図面作成命じられ、房綱は山上道及らに依頼し関東諸国山河、城、街道詳細に色分けして描き加藤清正提出した東征が始まると房綱と道及は佐野家に対して集結呼びかけたが、思ったより少数の兵しか集まらず秀吉落胆されたと伝わる。ただしこの頃佐野氏の主軍は他の諸勢力同様に北条一門である佐野氏忠率いられ小田原籠城加わっていたため、集まりが悪い理由推測できる。房綱らは碓氷峠越えて来た北方軍加わっており、道案内務めていた。天下要害ではあるが寡兵の守る唐沢山城4月28日開城となり、北条氏勢力一掃され佐野房綱が城を受け取り佐野氏当主として認められ本領安堵された。 下野那須氏那須資晴は、周辺宇都宮氏結城氏佐竹氏抗争していたため、北条氏伊達氏と組むことが多かったこのため豊臣氏東国干渉してくるようになった際も敵対的な態度取っていた。秀吉の参陣の命にも従わなかったため、戦後所領没収された。しかし重臣大田原晴清宇都宮仕置の際に歓待行い、資晴の子那須資景連れて面会し陳謝したため、資景に5千石与えられた。大田原晴清大田原氏主家とは逆に早くから豊臣氏接近しており、天正16年1588年)には父の名代という形で弟の増清を上洛させ、謁見成功していた。晴清自身秀吉駿河国沼津着いた頃に早々に謁見成功しており、秀吉覚え良かった大田原氏忍城の戦いなどにも参加した同じく那須家臣の大関高増早々に主家見限り秀吉に参陣し所領安堵されている。主家や他の那須七騎那須衆)が所領失い、あるいは減らす中、大田原氏大関氏時流読み上手に立ち回ることに成功した那須氏没収され烏山城には、この小田原征伐後に100万石余を没収され改易された織田信雄入り流罪とも蟄居処分とも言われるが、2ヶ月ほど城主であったその後北条であったが娘の甲斐姫の縁で取り立てられ成田氏長封じられた。

※この「下野諸侯の動静」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「下野諸侯の動静」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

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