下野諸侯の動静
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下野国唐沢山城の佐野氏は、先代の佐野宗綱が天正13年(1585年)元旦に戦死した後、北条氏から氏忠を迎え当主とした。佐竹氏から養子を迎えることを画策していた佐野房綱や山上道及は不満を持ち、上洛して豊臣秀吉に裁可を訴えていたが、北条氏はこれを無視した。このため反北条氏の家臣らは出奔し、房綱や山上らは上方で豊臣氏に仕えていた。小田原征伐が構想されると房綱らに対し、関東地方の絵図面の作成が命じられ、房綱は山上道及らに依頼し関東諸国の山河、城、街道を詳細に色分けして描き、加藤清正に提出した。東征が始まると房綱と道及は佐野家に対して集結を呼びかけたが、思ったより少数の兵しか集まらず秀吉に落胆されたと伝わる。ただしこの頃佐野氏の主軍は他の諸勢力と同様に、北条一門である佐野氏忠に率いられて小田原籠城に加わっていたため、集まりが悪い理由も推測できる。房綱らは碓氷峠を越えて来た北方軍に加わっており、道案内も務めていた。天下の要害ではあるが寡兵の守る唐沢山城は4月28日に開城となり、北条氏の勢力は一掃され、佐野房綱が城を受け取り佐野氏の当主として認められ、本領安堵された。 下野那須氏の那須資晴は、周辺の宇都宮氏や結城氏、佐竹氏と抗争していたため、北条氏や伊達氏と組むことが多かった。このため豊臣氏が東国に干渉してくるようになった際も敵対的な態度を取っていた。秀吉の参陣の命にも従わなかったため、戦後所領は没収された。しかし重臣の大田原晴清が宇都宮仕置の際に歓待を行い、資晴の子の那須資景を連れて面会し陳謝したため、資景に5千石が与えられた。大田原晴清の大田原氏は主家とは逆に早くから豊臣氏に接近しており、天正16年(1588年)には父の名代という形で弟の増清を上洛させ、謁見に成功していた。晴清自身も秀吉が駿河国沼津に着いた頃に早々に謁見に成功しており、秀吉の覚えが良かった。大田原氏は忍城の戦いなどにも参加した。同じく那須家臣の大関高増も早々に主家を見限り秀吉に参陣し、所領安堵されている。主家や他の那須七騎(那須衆)が所領を失い、あるいは減らす中、大田原氏と大関氏は時流を読み、上手に立ち回ることに成功した。那須氏が没収された烏山城には、この小田原征伐後に100万石余を没収されて改易された織田信雄が入り、流罪とも蟄居処分とも言われるが、2ヶ月ほど城主であった。その後、北条方であったが娘の甲斐姫の縁で取り立てられた成田氏長が封じられた。
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