下町ボブスレーネットワークプロジェクト以前の開発史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 02:21 UTC 版)
「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」の記事における「下町ボブスレーネットワークプロジェクト以前の開発史」の解説
戦後初の日本製そりは札幌市の町工場、三島工業(現在は廃業:3章)が手掛けた「MISHIMA-I・2men」である。開発を手掛けたのは1984年から当時の日本ボブスレー代表チームが使用していたイタリア製のそりのメンテナンスを引き受けていた三島工業の技術者であり、その縁あって日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟から日本製のそりの制作を打診された。完成したそりの性能は振るわず、世界の舞台で戦うことはなかった:121-124。 なお、下町ボブスレーネットワークプロジェクトはこうした開発史を知らず、かつて「初の国産ボブスレー」を標榜していた:135f。このことも含め、不見識に基づいた彼らの一連の言動は実態以上に日本のボブスレーの現状を貶めたとも取られかねない物であり、後の連盟との不協和音の一因となったとされる:5章。 1994年、リレハンメルオリンピックの終了後、長野オリンピックを目標に国産のそりを製作する計画が連盟の旗振りで立ち上がる。この時開発リーダーとなったのは、後に下町ボブスレーネットワークプロジェクトの副委員長に就任して開発を牽引する童夢の奥明栄であった。また先ほど触れたMISHIMAの開発者や:3章、リレハンメルオリンピックで3回目となるオリンピック出場を果たし、下町ボブスレー1号機の開発にも携わることになるボブスレー選手脇田寿雄も:119この計画に参加している。奥らは2年間準備をしたが、3年目実機の制作にとりかかる寸前、資金難に加え連盟内のプロジェクト推進者が退陣したことによって計画は中止となった。 こうして一旦国産ボブスレー開発の機運は途絶えるが、日本代表監督に就任した石井和男によって2006年にボブスレー工学研究会が結成され、既存の外国製ボブスレーの改造というアプローチによる取り組みが行われてきた:6章。「緩まないナット」で有名なハードロック工業がこの取り組みに協力するが、これが報道された事が後に立ち上がる「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」の設立の遠因となった。
※この「下町ボブスレーネットワークプロジェクト以前の開発史」の解説は、「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」の解説の一部です。
「下町ボブスレーネットワークプロジェクト以前の開発史」を含む「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」の記事については、「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」の概要を参照ください。
- 下町ボブスレーネットワークプロジェクト以前の開発史のページへのリンク