下田奉行・浦賀奉行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 00:34 UTC 版)
下田奉行は、伊豆下田の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1,000石高の職で役料が1,000俵支給された。定員は1、2名。 当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転し、当時の下田奉行・堀隠岐守利雄が初代浦賀奉行となる。この時は佐渡奉行の次席、役料は500俵だった。浦賀奉行の定員は時代によって変わった。 浦賀奉行の役務は、江戸湾に入る船舶の監視・積荷の検査・相模や浦賀の民政裁判等を担当した。配下は組頭と与力10騎、同心50人、ただし人数は時代によって変化した。他に、足軽20人、水主頭取11人、足留水主190人がいた。 文化年間になると、日本へ外国船が来航するようになり、浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。相模側の警備は、浦賀奉行を中心として、川越藩(非常時には小田原藩も)が援護することとなった。 役高は1,000石で、役料500俵を支給された。嘉永6年(1853年)の黒船来航以後は、重要性が増し、2,000石高となる。慶応3年(1867年)には、従来の足高、役知、役料、役扶持を中止して、役金として1,500両が支給された。 幕末期には外国との交渉の窓口となった。天保13年(1842年)-天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)-万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。主として陸奥会津藩士が赴任した。 浦賀奉行定員数 享保5年(1720年) - 文政2年(1819年)、1人 文政2年 - 天保13年(1842年)、2人 天保13年 - 弘化元年(1844年)、1人 弘化元年 - 文久2年(1862年)、2人 文久2年 -、1人
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