上阪、インディーズ時代
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1993年 - 1996年 1993年春に高校を卒業。NO SCOREは事実上解散となり、福山市の情報処理系の専門学校に入学する。しかし、入学直後から「自分の居場所はここじゃない」という思いを抱き、2ヶ月ほどしか通わなかったという。当時、Tamaが因島に残って高専に通いながらバンド活動をしていたため、新藤は福山から因島に通ってバンドに参加させてもらい、次第にTamaとオリジナル曲の制作をするようになる。夏頃からは様々なコンテストに出場し、尾道・三原地区で行われた楽器店主催コンクールで優勝するなどしている。冬頃にTamaと共に上阪を決心し、1994年春に前年に上阪していた岡野ら、NO SCOREのメンバー5人全員が大阪で再会を果たす。再びバンドを結成したが、生活固めに忙殺され、ほとんど活動しないまま2人が脱退する。生活も落ち着いてきた夏頃から新たにバンド活動を始め、新藤自身がポルノグラフィティと名付ける。その後は城天や心斎橋筋2丁目劇場でのライヴやイベント出演など、精力的にバンド活動を行う。 1997年 - 1998年 1997年3月に『ソニーミュージック SDグループオーディション』に合格し、ソニーミュージック(SME Records)と契約を結ぶ。その後所属事務所がアミューズに決定し、9月末に活動拠点を大阪から東京に移す。1998年夏頃からポルノグラフィティのメジャーデビューに向け、本格的に楽曲制作やレコーディングを開始した。
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上阪、インディーズ時代
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1993年 - 1996年 1993年の高校卒業後は浪人のために上阪し、予備校の寮に入る。当初は頑張って勉強をしていたが、夏頃からは寮の友達の影響でサッカーやパチンコなどで遊ぶようになったという。また、一番音楽を聴いていたのもこの時期で、当時はヘヴィメタやハード・ロックが好きで、ラジオや雑誌で情報収集をしていたと語っている。1994年に大阪学院大学に入学し、上阪した新藤とTamaら、NO SCOREのメンバー5人全員が大阪で再会を果たす。再びバンドを結成したが、生活固めに忙殺され、ほとんど活動しないまま2人が脱退する。生活も落ち着いてきた夏頃から新たにバンド活動を始め、ポルノグラフィティを名乗るようになる。その後はライヴやイベント出演など精力的にバンド活動を行い、ほとんど大学には通っていなかったという。城天や心斎橋筋2丁目劇場でライヴを行っていたのもこの頃である。 1997年 - 1998年 1997年3月に『ソニーミュージック SDグループオーディション』に合格し、ソニーミュージック(SME Records)と契約を結ぶ。その後所属事務所がアミューズに決定し、9月末に活動拠点を大阪から東京に移す。1998年夏頃からポルノグラフィティのメジャーデビューに向け、本格的に楽曲制作やレコーディングを開始した。
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